漱石に「行人」という小説がある。心に残るのは、その主人公のお兄さん。
自分が今、あのお兄さんと同じような情況だから(もちろん心的に)、残るというより「いる」、自分自身があのお兄さんに投影されている。
漱石の描く世界。「吾輩…」の猫の最期は何度読んでも凄い描写だし、漱石のみつめていた虚無、人生観のようなものが、猫を介して明らさまに・緻密に描かれていたと思う。
まったく、何度読んでもグッときて、恥ずかしいが涙ぐんでしまう。
「こころ」にもやられた。
漱石の世界を思う時、時間が止まる感覚がある。その瞬間、瞬間瞬間が、枠に入って固定化する。その中に自分も入り込み、静止してしまう。
漱石に吸い込まれ、非・日常のなかにいる感じに持って行かれる。それでいて、いかにもこれが生きるということであり、生きているということ、また、生きていくということ、と、漠然とした雲に包まれる感じがする。
だが、そんな漠として、ただあるだけでもない。
確かな、手ごたえもある。「心ごたえ」か。
だから大きな存在となる。強い、のめり込んでくる存在に。
そののめり込み先は漠とした心だから、確固としてはいない。
それでも確かに感じられる「存在」。
「行人」の兄さんは、生きあぐねている。自殺でもしそうな勢いである。
二階の自室に引き籠もり、出口のない闇のなかにいる。
死ぬこともできず、生きることもできない。
そんな情態を、ひっそり、しかし確実に訴えるように描いている。
何も訴えていないかもしれない。訴えられている。
妻ともうまく行かず、心をふさぎ続ける兄さんは、誰とも、この世と、ともに歩けないことを知っている。
だが友達に誘われ、海に行き、浜辺をずんずん歩く。
ずんずん、ずんずん歩くのだ。