ドストエフスキーの、転換期の一作。
この引きこもりの地下生活者は、歯痛に苦しんでいる。
医者に行けばいいものを、行かずに、わざわざ苦しんでいる。
自分で選んで、そうしているのだ。
そして呻き声をあげるのだ。
世にも醜怪な、怨恨を込めた呻き声を。
何に対する? この世界、この世の、全体に対して。
そうして彼は、快感を得ている。
(なぜ人は、快楽の絶頂の時、苦悶の表情で苦しげな声をあげるのか? と、モンテーニュは疑問を呈している)
この地下生活者の、この世への怨恨は根深い。
そこまで、ぼくは恨めない。
でも、彼から、ぼくは生きるエネルギーのようなものを感じざるを得ない。
彼は、何も悪いことをしていない。
生活は、親族の残した遺産によって成り立っている。
ただ、歯痛に苦しんでいるだけなのだ。
そしてその苦しみによって、まるで生き生きと生きているかのようなのだ。
痛みと快楽。自分に、引きつけて、考えてみよう。
椎間板ヘルニアになった時、ぼくはひとりでトイレにも行けなかった。
一緒に住む人はパートに行ってしまった。
彼女は出掛ける際、「ここにしなさい」と、大きなバスタオルを枕元に置いてくれた。
だが、ぼくはそこにしたら、もう人間でなくなってしまう気がした。
意地。それだけは、といったようなもの。
そのために、死にもの狂いで、トイレに行った。
ぼくには、人間というものが、よく分からない。
漠然と、し過ぎていると思うからだ。
にも関わらず、あの時確かに、「人間というもの」的なものに、強くこだわっていたと思う。
汚い、というのも、あったろうけれど、それより、もっと「意識的なもの」が発動してたように思う。
すると、地下生活者の彼は、人間として、この世を怨嗟したように思える。
彼は、自分を、人間らしい人間として、歯痛に対していたのだ。
彼は、この人間社会に、強い希望を抱いていた。
理想の国家。誰もが幸福で、貧富、身分の差もなく、誰もが幸福になれ、平穏に暮らし、笑い合える、理想の社会を…。
だが、世界はそのようにならなかった。
そして彼は、引きこもった。
残ったのは、この世への、恨み。気弱な彼は、世界へ刃を向けられない。
もぬけの殻になるか、自殺するしかなかった。
だが、彼は歯痛を得た。
世界は、自分の思い通りにならなかった。
歯痛も、思い通りにならない。
この歯痛は、社会と自己とをむすぶ、最後の接点だ。
呻き声さえ、あげることができる!
人間的な、人間的な、理想の社会。
挫けた自分の、最後の自由!