キルケゴール著作集5。
「反復」の後はこれだなと、やはり根拠なく直感、読んでみた。何度か挫折しそうになりながら。
よく解らない一行、何度か読み返し、考えても解らない一行はやむなく飛ばし、でも次の一行を読んでみたら解った、ということもあった。
この「おそれとおののき」はどこまでも聖書の「アブラハム」という人物の「神への愛(信仰)について執拗な考察が行なわれ、宗教を持たない自分にはアレルギー反応が少々出もしたが、やはり「反復」と同じくキルケゴールの本としては読み易かったと思う。
慣れも大きい。改行もなく文字でビッシリなページを見るだけでおそれおののいていたが、そんな文字の洪水に慣れたんだと思う。追える… げんなりせず、追えるようになった。
あの徹底して思索に思索を続ける、思考を書く── そりゃこうなる。
ついて行こう、ついて行けない、ということよりも一緒に考える。共に考える。考えるということ、これ自体が無限だ。冒険、探索、潜水している気になりながら、とにかく一緒に考える。考えるというより歩く… 体力を使う!
中学の頃「ニューホライズン」とかいう英語の教科書にイサクとかアブラハムという名前を見た記憶がある。(芥川の「蜘蛛の糸」?地獄に堕ちたカンダタとかいう人が、上から垂れて来た糸をつかんで上ろうとした文章と挿画も見た気がする)
それはさておき、「おそれとおののき」。アブラハムへのキルケゴールの愛、これがいやというほど伝わってきた。やはり愛とは信じることなんだなぁ、と痛感した。
信じるということ。それは自分を信じる、自己の内面性に信心、信仰が生まれるのは事実と言えるだろうが、それだけではまだ弱い… ほんとうの愛、信心というものではないことを思った。
いやしかし信心信仰と書くと、どうにもイヤな感じになる。ほんとに自分は宗教的なものは苦手なのだ… が、宗教という形はとらないまでも、精神というものが形のないものであるから、結局所謂スピリチュアル的なものを自分も持っているとは思う。
ただ自分の場合それが「自己の内」の外を出ないのだ。どこまでも内へ内へと自分の「信心」は向かう。その心は、外── 外部からの影響をきっかけに芽生え、動き出し。
ああ動いたな、と心の「存在」に気づき、それをどうにかしようとする。その時は自己の内から外へ向かっているかのようで、手立て…「外」への対処をしようとして、その心を自己の内のどこかへ持って行こうとしている。
「内」に向かいながら「外」に対するという、この書くという行為そのもののことをしている。
しかしキルケゴール、そのタイトルの付け方がすごい。「おそれとおののき」。(「と」は要らなかったようにも思うが、やはりこの助詞「と」がないとダメなんだろうという気も確かにする)
エヴァンゲリオンの作者がとった「死に至る病」。
「あれか、これか」。「瞬間」というのもある。
読んでいると、時間があっというまに過ぎる!
ハマると一気に読める… 何がハメさせるのか解らないが、何かそういう瞬間がある。その瞬間が知らず知らずのうちに継続して、「あっ」と気づけば時間が過ぎている。
時の速さにおそれおののくが、読めたこと、一緒に旅ができたこと、頭の中の、自己の内の… に、とりあえずの満足をみる。が、やっぱり何回か読み返さないと何か足りない。
いったい、いつまで続くのか。