「徳」

 ぼくは、子どもの頃、いろんな人に同化した。
 大人しい人には大人しく。活発な人には活発に。少し荒くれ者には、ぼくも少し荒くれ気味に。と、自分を相手に同調させ、相手の土俵で相撲をとる、といった関係の仕方をしてきた。
 自分を同調させる、という意識もなく、自然にそうなっていた。

 老荘思想に関する本を読んでいると、「徳」というのは人間内部にあるもので、そのはたらきは「まわりと調和する」ということである、との文面がある。

 ナンダ、自分は徳のある子どもだったではないか、と思った。今も、まだ自分に、なさそうでありそうだが、若年の頃に比べれば、だいぶ狭い人間になった。
「合わない」と相手を見たら、もう、近づこうとしなくなった。

「徳のある人間は、自分に徳があることさえ気づかない。無意識に言動に表われるもの、それが徳のはたらきである。意識的な言動は、人為であって、わざとらしいぎこちなさを伴う。自然とは、おのずからそうなっているもので、はたらかせようとすれば、離れていく。おのが自然に反せず、水のように生きればよい」
 ── 老荘は云う。

 ピカソは、「皆、天才である。ただし、子どものまま、大人になれるとしたならば」と言った。
 徳のある人を、ぼくは何人か知っている。
 銭湯で話す老人は、身体は老いたが心は子どものようである。赤子のように無垢ではなかろうが、無垢でない時間を経て、また無垢に還っていくかのようである。
 そのような人たちと交わる時、とても楽しい。

 自分が読書をする理由を考える。本を読んで、嬉しくなる時、何が嬉しがらせているのか、考える。

「おたがいに無関係でありながら、しかも関係をもち、相手のためにしないで、しかも相手のためになるような人間はいないものだろうか。
 だれか無を頭とし、生を背とし、死を尻とすることができるものはないだろうか。
 死と生、存と亡とが一体であることをさとるものはいないであろうか。もしあれば、友だちになりたいものだ」
 ── そう言ったのち、三人はたがいに顔を見合わせて笑い、心からうちとけて親友になった。(「荘子」大宗師篇)

 荘子の言う、このような人との関わり方を、いつの頃からか、ぼくはずっと求めていた。
「荘子」を読んで、ぼくは、ひとりでなくなった気がした。
 生と死は、同じものであること、これも長いこと、自分の中にくすぶっていた、確信めいたものではあったけれど、それをひとりで抱えているには、心細かった。

 ああ、2400年前に、もう、いてくれた!
 荘子の残した言葉を知れて、ほんとうに嬉しかった。ありがとう、と、心から叫びたい。

 ひとりでないと知れること。それが、ぼくの読書する理由に、最も近い。
 ソクラテスでは、「徳」を「はたらき」、老荘思想では「もちまえ」とルビがふられている。
 もちまえと、はたらき。
 自分の中のもちまえを、はたらかせてくれるもの。
 自分自身の、確認作業。
 人間関係。本との関係。この世の、ありとある、いのちとの関係、か。