山川方夫の世界(1)

 作家の柳美里は、けっして幸せといえない子ども時代を送っていた、と何かの記事で見たことがある。
 その彼女が、唯一やすらげた場所が、本の世界だった、と。
 いわば現実逃避としての読書。
 そういう本との対し方を、この頃ぼくもしている。

「三田文学」(慶応大学の文学部が中心になって刊行されてきた文芸雑誌)で、編集者として精力的に活動していた山川方夫まさおの本にである。
 ああ、小説って、美しいものなんだな、と、初めて気づかされた思いがする。

 読み易い文体、豊富で圧倒的な語彙力、様々な分野での知識。
 山川方夫という人、そのままが小説に造形されて、うっとりするような魅惑的な世界、一度それを知ったらずっとそこに安住していたくなるような世界。

「山川方夫全集」(冬樹社)は五巻まで出ている。山川さんは亡くなっているから、もう増えることもない。
 その五巻のエッセイから読み始め、なんと誠実な人だろう、ということを実感せられた。
 映画や小説の評論が主で、批判的に書かれていることが多かったが、言葉を駆使して無責任に評するのでなく、その作品に向かって山川さん自身が血肉としたものを書いている、という印象をいたく受けた。

 評された作品の作者も、山川さんにこんなふうに批評されたら、いやな思いより、今後に生かされることが多かったのではないかと思う。
 今、四巻の「ショートショート」をじっくり読んでいて、全集によく挟まれている「月報」によれば、「閃光の文学」と山川さんの作品を評する人がいた。

 要するに、まどろっこしい情景叙述、こまかい人物動作の、ややもすれば退屈になりがちな背景描写を最低限におさめ、それでいて確かな手ごたえを読み手に与える短い物語。
 鮮烈な、こころに刺さるその物語は、ショートショートだからすぐ終わってしまう。「閃光」とは、うまく言ったものだと思う。

 この四巻の中に、「他人の夏」という作品がある。

 主人公が住む町は海に近く、夏になると沢山の観光客が訪れる。ガソリンスタンドで働いている主人公は、ある夜、人のいなくなった海へ行く。
 夜光虫に身体をなめられながら、沖まで泳いでいくと、そこにひとりの若い女が泳いでいた。こんな深夜に、独り言をいいながら。

「大丈夫ですか?」と彼は声をかける。ほっといてよ、と女は言う。
「あなたは自殺するつもりですか?」と彼は訊く。
 あなたには関係のないことだ、と女は言う。
 だが主人公は、漁師だった父親の話をし始める。

 牛みたいな大きなカジキを銛で打ち、三日もかかって捕まえたこと。
 精も魂も尽き果てて帰ってきた父親は、カジキの背をたたきながら、
「オレはこいつに勝ったんだぞ、生きるってことは、こういう、この手ごたえがあるってことなんだ」
 泣きながら、そう言ったこと。

 女は、あきらかに自殺を考えていた。
「べつに、やめなさい、っていうつもりはないんです」と彼は言う。
「死のうとしている人間を、軽蔑しちゃいけない。どんな人間にも、その人なりの苦労や、正義がある。その人だけの生き甲斐、ってのがある。それは、他の人間には、絶対にわかりっこないんだ。親父は、そう言いました」

「人間には、他の人間のこと、ことにその生きるか死ぬかっていう肝心のことなんかは、けっして分かりっこないんだ。人間は、だれでもそのことに耐えなくちゃいけないんだ。だから、目の前で人間が死のうとしても、それをとめちゃいけない。その人を好きなように死なしてやるほうが、ずっと親切だし、ほんとうは、ずっと勇気の要ることなんだ、って」

 この文を読んだ時、ぼくは思わず涙ぐんでしまった。
 そして主人公の父は、自殺してしまった。背骨を痛め、もう漁ができなくなったからだ。

 この小さな物語の顛末は、その自殺しようとしていた若い女が、翌日再びガソリンスタンドにスポーツカーでやって来て、「あなたに勇気を教えられたわ、働くってことの意味も」
 そうして去って行く、というものだが、このたった六ページのショートショートの中に、六ページ以上の、大切なことがぎっしり無明に詰まっているように思えた。

 風景、背景の叙述も、いちいちが心を惹いた。
 主人公が沖に行くまで、その身体にまつわりつく夜光虫。
 話を始める彼は、女にけっしてふれず、女のまわりを、回りながら泳いで喋っていた。

 主人公の生まれ育った町は、夏になると、いつも他人に埋め尽くされる。
 そして他人と自己は、窮極において解かり合えることはない。
 それでも、わかり合える刹那がある。…

「他人の夏」、それから、「メリイ・クリスマス」という作品も、何回も読み返したい。
 ぼくがまた現実逃避したくなったら、逃避先が現実かもしれないが、またここにその作品について書いてみたいと思う。