「二十歳の原点」を何年ぶりかで読む。1969年に、鉄道自殺した女子大生の日記。
全共闘、民青、いわゆる学生運動の時代の、息吹のようなものは、とても感じる。
その日々のこと、誰かを好きになったこと、自分とは何かということも、克明に描いていると思う。この本は、やはり好きだ。
しかし、どうしても気になる。この人が、自殺していなかったら、この日記は本にならなかったろう、ということが。
読んでいても、その自殺に至るまでの過程、として読んでしまう。ぜんぶの言葉が、自殺に吸引されてしまう。
だから惹かれるのだけれど、こういう心、精神をもって、しかしそれでも生きていたとしたら、と考えてしまう。自殺という結末があって、初めて惹かれる、そういう読み方しかできない。
今も生きていらっしゃったら、と思わずにはいられない。自殺という選択をした高野さんの、悲しみばかりが心に響いてしまう。
芥川龍之介の、「自殺者の心の遍歴を克明に描いたものがあるなら、読んでみたい」といったような願望は、この「二十歳の原点」でひとつ、満たされるのではないか。
自殺者は、その理由は各々違うように思われるけれど、死に向かおうとする心は同じだ。
椎名麟三が映画製作に関わった時、スタッフたちと「自殺の動機」について埒のあかない議論が交わされたらしい
椎名さんは、「いいんですよ、自殺の動機なんて、何でも」というのに対し、製作スタッフは納得しなかった。
警視庁か何かの統計によると、病苦と貧困が一番多いらしいから、「じゃ、これにしますか」と言っても、納得しない。観客に、説得力のある自殺の動機でなければいけないという。
「下駄の鼻緒が切れて、自殺したくなった」という動機でもいいんですよ、と言うと、あきれられた。
でも、自殺の理由なんて、何でもいいんだと僕も思う。肝心なのは、死に向かってしまう心で…
「2万円の借金のために自殺した人には同情できない。恋愛のために自殺した人には同情する」という人もある。どうでもいいではないか。万人が納得する、説得力のある自殺なんて、あるわけがない。
しかし映画はとにかく客に納得のいく理由を打ち出さなければならなかった。結局、ヒロインが有名な女優さんだったので、その人に合わせたイメージで、動機をともかく作ったらしい。
この「ヒロインに合わせて自殺の動機を作る」は、そのまま、高野さんや、自殺をしようとする人に、あてはまるような気がする。
誰でも、自分の人生では、自分が主人公だ。生きる理由も死ぬ理由も、その舞台上にある自分自身によって、その意識によって作られる。
この社会の中で、どう生きるか、どう生きて行ったらいいのか。それをよく、よく書き記した言葉が連なっているのが、「二十歳の原点」であるとは思う。
しかし、やはりどうしても、どうして死んでしまったのかという、やりきれない気持ちだけが大きく、読む僕に迫ってくる。
このまま、そのままのままで、この人が生きてくれたら、もっと魅力的に…ならないだろうか。とにかく私には大切な、捨てたくない一冊だ。