プラトンと荘子を読んでいる。徳、善、真、正しさ、という言葉が目につく。
ソクラテスの言葉として、
「おべっかを使い、ひとに認められるのを第一義にして、君は、ことを行なうのか。こうすれば高い評価を得るだろうと、それを目的にして、君は弁論術を使い、ひとに迎合し、言葉を駆使しているのか」
と、相手に向かう場面がある。
「ぼくたちは」と哲学の祖が言う、「いかに生きるべきかが、いちばん重要な問題ではないのか。より善く生きるためには、どうすればいいか、ということが。
人を楽しませ、快くさせることは善である、と君は言う。人に快を与え、自分も快を得る。何の問題があるのか、と君は言う。
しかし、人を満足せしむれば、自分も満足する、ということは、人がいなくなれば、君の善もなくなることになる。
それは、君を最終的に不幸な目に遭わせるのではないか。善は、人を不幸にさせないものであるはずだ。
ぼくは君を満足させるために、ここにいるのではないのだよ。ぼくが満足するために、君といるのでもない。善く生きるにはどうするべきかを、今生きるものとして、ともに探すためにいるのだよ。
真実、善というものは、ぼくにもよく分からないのだ。それをしらべ、おたがいが納得のいくよう、あきらかにするために、議論しているだけなのだ」
荘子にも、これと似たような言葉がある。すなわち、「あなたとわたしは、身体の内にある心の世界で交際しているはずなのに、あなたは外にあらわれる形にばかり捕われている。おかしいではないか」
また言う、
「ことさらに人を楽しませようとする心のはたらきには、人を思い通りにさせようという魂胆がある。世間の評価を求めて行動し、自己を失うものには、人を愛そうとする心がない。
かれらは、いたずらに他人のことに奉仕し、他人のために奉仕することを楽しみとしたものであり、みずからの楽しみを楽しんだものではない。そのようなものは、身を滅ぼし、真実のありかたを見失う」
人為を嘲笑し、無為自然を真人の境地とした荘子と、人為、人との対話によって真実、善、正しさを希求したソクラテス。
まるで風采の違うふたりだが、どちらも、ひとつの道を一方は風のように、一方は牛のように、唯一無二のものに向かって歩んでいたように思われる。