(5)糊口

「実存は、最も危険な生き方だ」と識者は言う。それは、人間の自由の冒険であらざるをえないからだ、と。
 ざるをえないということ。まわりによって、そうあらざるをえないのではなく、自分自身によって、そうあらざるをえないということ。
 きみは、それを主体性と呼ぶ。

 セーレン、きみは大学時代、ラテン語その他をギムナジウムで教えていたね。助教員、という地位への道も開けていた。だが、きみはそれを拒否した。しかも、「それはぼくにふさわしい職業だった。だからぼくはその職に就かなかった」と言って!
 驚いたよ。一般に、人はふさわしくない職業と判断して、拒むものだろう? ところがきみは、「ふさわしいから」拒んだのだという。

「ふさわしいものであったから、それに就けば、ぼくはいっさいを失ってしまっただろう、何も得られなかっただろう」と、きみは述懐している。
 きみは神学の勉強をし、国家試験を受け、聖職者になる資格も得ていた。ところが、その教会へ勤めるどころか、キリスト教自体を激しく攻撃し、敵対さえしてしまう。
「こう生きればいいのに」と一般に誰もが思う生き方を、きみは拒否せざるをえない自己を抱え、そうしない生き方しかできなかった。きみは、自分に正直に生きるしか、きみにとっての糊口の道がなかったのだ。

 セーレン、きみへの接し方として、わたしはわたしの実存と向き合わねばならないから、こんなことを書くけれど── 就職に向き合う時、わたしは、ああ、これで自分は生きていくのかと思ったものだった。
 そしてわたしも拒んだ。理由は、「なぜお金を稼がなければ生きていけないのか?」という疑問、疑問というより、納得できない、決定的な、だから致命的な反発のようなものが、ずっとわたしの底にあったからだと思えてならない。

 まるで誰もが、お金を稼がないでどうやって生きてくの? と言っていた。いや、言ってはいない。それは空気だった。みんな、お金という空気を食べて生きているように、わたしには見えたんだ。その中に飛び込むことは、ひどく覚悟が要った。生きながらにして死ぬことのように思えたよ。みんな、まるで平気そうに、そこで息を吸って生きているはずなのに。

 セーレン、きみがキリスト教を攻撃することは、決死の覚悟だったろう。わたしはきみほどの覚悟はなかったけれど、宗教のように「こうしなければ生きていけない」と一般にされているもの、それがどんな「間違ったこと」であってもそれに従順であることに、反抗せざるをえない自己を抱えていたつもりだからだ。

 きみはどこまでも自分を根底において、思索を開始し、それを著述に開示した。著作で食って行けるわけもなく、自費出版して書き続けた。
 賃金の保障された職に就くことが、きみにとって死であり絶望であったなら、それを拒んだことも死であり絶望へ繋がる道だったろう。たとえきみに父からの遺産がなくても、きみは後者の道を選んだだろう。
「絶望の苦悶は、死ぬことができないという、まさにそのことである」ときみは言う。

「してみれば、絶望は、死病に取り憑かれた者の状態に似ているわけだ。彼は横たわって、死と戦いながら、しかも死ぬことができない。
 死に至るまで病んでいるということは、死ぬことができないということであるが、といって、それも生きる望みがあってのことではない。
 いや、その希望のなさといったら、死という最後の希望さえ存在しないほどなのだ。

 死が最大の危険である時には、ひとは生を願う。だが、それよりも一層恐るべき危険を学び知った時には、ひとは死を願う。
 こうして死が希望となっているほど危険が大きい時、絶望は、死ぬことさえもできないという希望のなさなのである。
 この最後の意味において、絶望は死に至る病である。それは永遠に死ぬという、死んでしかも死なないという、死を死ぬという、この苦悶に満ちた矛盾であり、この自己における病である。
 自分について絶望すること、絶望的に自分自身から脱け出ようと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である。*」

 きみは、あらゆる時に、あらゆる場所で、絶望と憂鬱に囲われていた。きみは「自分を研究する」と言ったが、それはどこまでも自己を根底においた、思索の旅だった。きみにその旅をさせたのは、常にきみの友達のように存在していた、きみの絶望であり、きみ自身であるところの憂鬱だった。

「帝王になろうとした人間がいたとする。彼が帝王になれなかった場合、彼はそれについて絶望する。だが、帝王になれなかったことが絶望であるのではなく、帝王になれなかったという自己が、彼にとって耐えられない絶望なのだ。

 もっと正確に言うならば、彼にとって耐えられないものとは、自分自身から脱け出ることができなかったということなのである。
 もし彼が帝王になっていたとしたら、彼は帝王でなかった自己から脱け出ていた。だが、彼は帝王にならなかったのであり、そして絶望的に自分自身から脱け出ることができないでいるのだ。

 いずれにしても、本質的に彼はひとしく絶望しているのだ。というのは、彼は自分の自己を持っておらず、彼は自分自身でないからである。
 彼が帝王になっていたとしても、それによって彼は自分自身にならず、むしろ自分自身から脱け出ていただろう。
 また帝王にならなかったことで、彼は自分自身から脱け出れないということで絶望しているのである… *」

 ぶつぶつ言いながら、きみが帰って来る。今日は、たらちり・・・・鍋だ。いつまで、こんな寒い日が続くんだろうね。
 いずれ春は来るだろうけれど…。

*「死に至る病」(飯島宗享訳「世界の思想家15 キルケゴール」平凡社)より引用