(9)みっつめのところ

 ところでセーレン、きみと同時代に、ニーチェという思想家がいた。きみと、とてもよく似た感性と考え方の持ち主だった。ただ、彼の思想は、ナチ・ドイツの兵士たちの意気昂揚のために使われてしまった。ワーグナーも、人をその気にさせる音楽だったし、ニーチェも人をその気にさせる著作を残した。うまく、利用されてしまったわけだ。

 しかしきみの著作は、権力者に利用されなかったね。
とことん内面に向かって、自分のことを書き続けたのはニーチェもきみも同じだった。けれど、彼は自己超克を重ねていくことを「ツァラトゥストラ」で強く説いた。その超克のプロセスには、戦争があることも否定しない。
 肝心なのは、悲惨なとき、苦難のときを越えて、越えて、越え続けて、人類として真に平和なときを迎えよ、ということだった。ところが、その階梯の一面だけを見れば、ナチが利用するに十分な要素があったわけだ。

 でも、セーレン、きみの著作はどこまでも内面に向かい、内なる神であるキリスト教、つまり自己から、教会の在り方を訴える「攻撃」で終わった。
 内に向かう方向は同じだったけれど、ニーチェが人類へ、ぐるりと転回していったのに対し、きみはキリスト教国に生きる人間として、人間へ転回していった。
 ヒトって種族は、内向的であれ外向的であれ、攻撃的にできているのかもしれないね。まったく、死にたいねえ! これは内に向かう刃だ。殺したい、は、外に向かう刃だ。一体、どうしたら中庸を保って生きることができるだろう?

 認めること。自己と異なるものを、認めること。まず第一歩だろう、存在のみならず、考え方、感じ方、容姿、習慣、全てにおいて、違うということを認めること。
 一方だけが認めても、認め合わないと、全然平和でないだろう。悪も、認めては、悪ばかりがのさばるだろう。では、善とは?
善悪をつくるものは何だ? 自己だろう。なら、その自己とは? まわりのものを否定すること、それが自己が歩み出す第一歩だという。認めてばかりの人間には、自己が無いという。

 いくら「誰もが自己を持っている。だから誰もが自己を殺傷してはならない」と言ったところで、その自己が他者なくして無いのだとしたら? ましてこの言葉の意味も解そうとしない者は、否定の対象、すなわち自己を目覚めさせた相手を殺傷するだろう。
そして自己を否定する者を、否定されたことによって現れる自己のために、また殺傷をするだろう。

「水平化」。この世の万人が、権力も被権力もなく、穏やかに、諍いなく暮らすには? 水平化した海原が見えるよ。それをつくる一人一人は、徳を持ち、一人一人の相違を認められる、大きな人たちがつくるだろう。
 異なりは、相対から生まれるのであって、自己と他者がある限り、不満不平のタネがなくなることはない。
 ふたつの、相対するものの共通は、現にここに生きていること、そして各々の自己の中に信じる「神」があることだ。現実の神は、戦争の元になってしまうけれど、自己の内にある神は、自己自身に対してのみ、内の中にのみしか、はたらく場をもたないだろう。

 その神を、内から取り出して、相違する者との間に、浮かべる場所はないか? 相違は、どこまでも相違する。平行線、一方と一方のままでなく、中間にぽっかり、みっつめの場所は、浮かべられないものか?
 知識でも知力でもない、それらの知を、その身に培ってきた、その身自身、自我の前にあった、知を吸収してきた自己自身どうしから、ぽっかり浮かぶ、みっつめの場所。
戦争をし合うには、交わる交点があったはず、戦いができるなら、友好だってできるはず。
 個々である前に、人間だった共通項。みっつめの場所はどこ行った?

 キルケゴールを動かしていたものも、ニーチェを動かしていたものも、あらゆる教典の伝記記者も、その自己を動かし、動かされたものは、みっつめの場に浮かんでいたものではなかったか。
 そしてそこには何もなかった。だから彼らは埋めることができたのだ── その場を、みつめ直すことはできないか。
 ああ、お決まりの散歩から、雨の中、彼が帰ってきた。今夜もきりたんぽ鍋だよ! さあ、生きるために食べるんだ、生きるために食べるんだ。誰のためでもない、きみが生きるために、何のためでもない、いのちが、生きんとするために。