(12)独裁者と私

「悩んでいる者は、誰か自分を助けてくれる者がいさえすれば、喜んで助けてもらおうとする」ということが世間でよく言われるが、このことは実に、必ずしも全面的に真ではないのである。実情はこうなのである。悩んでいる者は、えてして、「こういうふうに救ってもらえたら」と思う救われ方を、いくつか持っているものである。そして、望み通りの仕方で救われるのであれば、彼は喜んで救われたいと思うのだ。

 けれども、救われなければならないということが、もっと深い意味で真剣な問題となる場合、わけても、より高いもの、あるいは最高のものによって救われなければならないということが問題となる場合──
(それは、救いがどのような仕方で与えられようとも無条件で受け入れなければならず、その人にとっては一切が可能であるところの「救済者」の手中にあって無にひとしいものとならなければならず、あるいは単にひとりの他人の前に身を屈しなければならないというだけのことにせよ、救いを求める限りとにかく自分自身を断念しなければならないという、この屈従が問題となる場合であるが)

 ── その場合になると、この自己は、ああ、あまつさえ果てしない、そして苦悩に満ちた受難がこの自己に存在することは確かであるとしても、そうした受難の中にあっても、なおこの自己は、そのような仕方で救われたいと思うまでに悩んでおらず、したがって、そうすることによってのみ、この先も自分自身であることが許されるものなら、根本的にはむしろそうした受難のほうを選ぶのである」*

 きみは言う、改行のない、長いセンテンスで。
 やはりわたしは、きみに、自分の心を指摘されたようで、羞恥を覚える。また、わたしの小世界に戻っていくよ。たとえばこの投稿サイトに書いているわたしは、自分の書いたものが、読んだ人の上に、何か生かされれば、という願いがある。

 しょうもないわたしの日常些細事を書くことで、今生きている人との接点であるこの社会の生きにくさ、なぜこうなるのかの理由めいたものを、自分なりに考えて文章化しようとしてきた面が、これでもあった。
 もちろん好きだから書いてきたのが実情で、まわりへの希望は「あとだし」の理由だ。

 わたしの望むもの── 自分の言いたいことがこの世に通って、さらに極端にいえば「差別のない、諍い事のない社会」に現実が近づいて、初めてわたしは喜べ、救われるような気持ちになるだろうことを想像する。
 それは夢物語だろうし、それはわたしの、この世を自分の思い通りにさせたいとするエゴだろう。するとわたしの「救われ方」は、自分の望んだ救われ方でしか、未来永劫、救われないことになる。
 そのエゴ、わたしの利己は、わたしの神であり自己であり、また、わたしのまわりにも同様に絶対的な自己があり神があり、対立するところの根源になる。

「要するに、自分自身でありたいとするのが、彼の気持ちである。彼は自己の無限の抽象化をもって始めた。しかも今や、彼はついにその意味では永遠となることが不可能なほど具体的となった。
 それにも関わらず、彼は絶望的に自分自身であろうと欲するのである。ああ何という悪魔的な迷妄だろう! もしかすると永遠が彼の悲惨を彼の手から奪おうと思いつくことがあるかもしれないと考える時、彼は最もひどく、荒れ狂うのだ」*
 きみは言う。

 するとわたしは、まるで自分が、あのロシアの大統領と同じに見える。やっていることは全く違う、立場も何も全然違うとしても、なにやら独裁的な、私利私欲にまみれているような、共通項を見る。まったく、心の問題で。
 きみはその「救い」として、「地上的な苦患、現世的な十字架が除かれうるという可能性に、希望を持とうとすること」を挙げている。
「神にとっては、いっさいが可能であるという、不条理の助けをかりて、救済の可能性に希望をかけることだ」と。
 きみのいう神、人間一人一人に内在するところの神。いっさいは、可能であるとする神!

 ひょっとして、ロシアのあの為政者は、今この世界で最も孤独に追い詰められているのではないか。彼の失脚は、すでに目に見えている。彼は、世界から孤立するだろう。彼は今、最も救われたいと願っている人間の一人なんじゃないか。失脚する前に、最後に、核を…、とんでもないことをするんじゃないか…
「その絶望は、人世に対する憎悪において自分自身であろうとするのであり、おのれの悲惨さの方向で自分自身であろうと欲するのだ」*

 もう、止められないのかね。一度、その方向へ突き進んだ人間を、止めることはできないのかね。止めることは…
「いずれ、止まる。彼の望む、望まざる仕方に関わらずに」 
「しかし問題は、今なんだよ。今、間接的に経済制裁が加えられても、今、直接戦争が行われ、人が殺されているのが今なんだよ」
 きみは部屋に戻っていく。三つある部屋のうちの… あれは、何を書いている部屋だっけ。

 *「死に至る病」(「キルケゴール」平凡社)