(11)「きみは絶望的に自分自身であろうとする」

 むつかしいきみの著述の中で、グサリとわたしに刺さった箇所がある。これには、マイッタ、と思ったよ。わたしの中にある問題を、きみはズバリ言い当てた。寒くて、くるまっていた布団を、はがされた思いがする。確かに、きみの言うことは、何回も読み返して初めて、きみの隣りに座れるのかもしれない。それまでは、離れた場所からきみのシルエット、息づかいを想像するにすぎないのかもしれない。

 問題意識だろうとも思う、自分の抱えた問題に対し、どれだけ真剣に対処しようかという。真剣さは、自己の内に向かうものだから、外に向かうものでもないのだけれど、記してみよう。思考と行為を繋ぐ、貴重な場所なのかもしれないね、この外と内のあいだの、中間地点。未来と過去の、中間にある、つなぎ目である、今。
「地上的な苦患、現世的な十字架が除かれうるという可能性に希望をもとうとしないことも、これまた絶望の一つの形態だ」ときみは言う。

 そして続ける、
「絶望的に自分自身であろうと欲するこの絶望者は、これを欲しないのだ」と。
「彼はこの肉体のとげが、とても抜き取ることができないほど深く刺さっていると思い込んでいるから、その棘を、いわば永遠にわが身に引き受けようと欲する。
 彼は、この棘につまずく。あるいは、もっと正確にいうなら、彼はこの棘を機縁として全人世につまずく。

 そして、彼は反抗的に自分自身であろうと欲する── といっても、その棘に反抗して、その棘なしの自分自身であろうと欲するのではなく(その棘なしの自分自身であるとは、もちろん、その棘を抜き取ることなのだが、それは彼にはできないし、また、できるとすれば、それはあきらめという方向での動きとなろう)、むしろ、彼は全人世に反抗して、あるいは全人世に敵対して、その棘を備えた自分自身であろうと欲し、おのれの苦悩を誇らんばかりにしながらその棘を保持していこうとするのである」

「なぜなら、救済の可能性に希望をかけること、特にこの場合は、『神にとっていっさいが可能である』という不条理の助けをかりて救済の可能性に希望をかけること、これが何としても彼の欲しないことだからだ。
 実際、誰か他の者に助けを求めるなどということは、たとえどのようなことがあろうとも、彼が断じて欲しないことである。助けを求めるくらいなら、むしろ彼は、たとえあらゆる地獄の責苦をうけようとも、あまんじて自分自身であろうと欲するのである」*

 ─── この「彼」は、オレか、と思ったよ。いや、オレのことを、きみは言っているのだと思った。
「これが自分だ」と規定した、自分の狭い狭い規定から、自分はこれからの人生も歩んでいくのかと思った。それは、確かに絶望だ、そしてこの絶望であることを欲し、わたしは絶望的に自分自身であろうと欲し、つまずき続けるのか、と思った。

 いつのまにか周囲と敵対し、反抗するつもりでなかったのに敵対し、それというのも、自分にこの絶望的な「苦」、自ら選んで入った「苦」を誇っている自己がいるからで、だからこの自己を救おうとも思わない。後生大事に、自分に刺さっている棘を愛撫する。この肉体の、立派な一部であるように。

 この絶望が希望でもあったのだが、きみはもう一度、この絶望について、わたしにその正体を現してくれたようだった。ドキドキしながら、読めたよ。でも、セーレン、この絶望は、わたしの希望でもあったのだよ。
「知ってるよ」きみは言う、「そこで、止まり続けては、ね。そこから、進んでいかなければ」

 いま、世界、絶望してるんじゃないか、だって戦争が起こっているんだよ、あきらかに。少なくとも、自分は絶望している。戦争に対して、何もできない自分、戦争が起こる前に、何もしてこなかった自分に絶望している。
「ほんとうにかい?」きみはまっすぐに言う。「真剣になれるのは、自己の内に向かってだけだよ…」
 もしかして、今ロシアの大統領は、絶望的に自分自身であろうとしているんじゃないか。それとも、絶望的に自分自身から脱け出ようとしているのか…
「どうしてこんな世界になったかって? きみ自身の問題だよ、それは」

* 「死に至る病」飯島宗享訳