(10)「死に至る病」

「絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれは三つの場合がありうる。絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。
 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。

 自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するに、ひとつの総合である。総合とは、ふたつのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。

 ふたつのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれらふたつのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。
 このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体とのあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。

 それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それともある他者によって措定されたのであるか、そのいずれかでなければならない。
 それ自身に関係する関係が他者によって措定されたのである場合には、その関係はもちろん第三者であるが、しかしこの関係、すなわち第三者は、やはりまたひとつの関係であって、その関係全体を措定したものに関係している *」…

 きみは言う、「死に至る病とは絶望のことだ」と前置きして、絶望について、そして自己について、関係について、しゃべり続ける。
 わたしにとっての問題は、きみの言っていることが、よくわからないことだ。にも関わらず、わたしに確然とわかるのは、きみがほんとうのことを言っていることだ。真実、をきみは言っているのだ。それがわかることが、わたしにとって、ほんとうのことなんだ。

 きみは上記のような言い方で、延々と語る。精神分析のようであるけれど、一つの限定された学問分野にありがちな、専門用語や過去の心理学者が規定した枠をいっさい用いず、ただひたすらに自分の言葉で語っている。
 何回読み返しても、わたしにはよくわからない。絶望的なほどだ。きみは、聞く者を絶望させて、そこから絶望について考えるよう、つまり本当に考えるよう、仕向けているのではないか? などと邪推する瞬間があったとしても、それさえ文字で埋めてしまう。きみのフキダシの中にわたしは溺れ、アップアップして、くるしい思いをすることになる。

 きみは、何だったんだろうと思う。どうして、そこまで語れたんだ? ほんとうに具体的なことを実例に挙げ、わかり易いように語るのでなく、ひたすら抽象的なこと、抽象に抽象をかさね、一貫して思索を続け、枝葉を伸ばし続ける。伸ばしながら、また伸ばす。それでいて、向かうのは、まいたタネ自体へ。
それで、どうなる?」そんな声が、わたしの中でする。「こんな話を聞いて、それでどうなる」

 今きみが、ブログをつくって書いていたとしても(よろこんで口述筆記するよ)、誰が読むだろうと思う。そもそも、きみは読まれようとしていたのか… それより、きみにとって大切な、ぬきさしならぬことが、あったんだろう。
 わたしのことを言っていいかな。わたしは、できれば、簡単な言葉で、わかり易く言いたいことを言おうとするものだ。でも、それだと、捨てるものがある。その捨てるものの中に、本当に言いたいことがあったとしても、「わかり易く」のためにそれを捨ててしまったこともあったと思う。

 きみは、そんな態度で、言葉に向かわなかった。こぼれたものもチャンと拾い、元の皿に盛り、およそ考えられうる全ての可能性をフルコースにして食卓にならべた。きみ自身が吟味した、至高の晩餐だ。
 そしてわたしには、よくわからない。識者は言う、「キルケゴールは、十回くらい読まないと…」と。

 きみは、思考することが行為だった。それはほんとうにほんとうのことだった。わたしは、行為に表わされるものが思考的なものだと思っていた。それは、ほんとうのことから、ほんとうでないことへ姿を変えることにもなる。
「それでどうなる?」「こんなの、読まれるわけないじゃないか」きみが行為した思考をまのあたりにするにつけ、ついそんな思惑が頭をよぎる。それだけ、わたしは功利的なもの、結果に見えるものに、毒されていたんだなと、思い知らされる。わたしは、きみの、きみにしか為しえなかった行為そのものに圧倒される。そして惹かれる。

 今、ウクライナで戦争が起きているのだけどね、セーレン、ロシアの大統領は狂っているそうだ。
 何が彼を狂わせたのか? 何かへの、絶望だったろうか。それがどんな些細な絶望であれ、それをはるかに上回る、暗黒大王のような欲望が、そこから彼の空を覆ったんだろう。
「そこ」とは、何だったのか? その「そこ」、その世界を、きみは生きたのだ。
 現代に、きみが舞い戻ったら、どんなことを書いていただろう?
「ナンセンスだよ。ぼくの書いたものは、ひとつの、物の道理であり、筋道だ。そのひとつひとつが、このうつつから与えられたもの、それが思索のきっかけだとしても、それを生かすのは、ぼく自身であることには変わらない…」
 そうだね。きみは死んでいない。

*「死に至る病」舛田啓三郎訳、「世界の名著キルケゴール」より引用