(13)現代に

 ところでセーレン、まだ、この世界に、戦争が続いているんだよ。
 酷いものだよ。むごいものだよ。
 きみが今、この時代に生きていたら、どんなことを言っていただろう?
 ナンセンスだろうか。きみはあの時代に生きるべくして生きた、今生きている人は、今の時代に生まれるべくして生まれたのだろうからね。

 きみは、自分の死期を誤解によって決めた。死ぬまでの、限られた生命を、だから自分自身に込められた。
 しかし、隣国で、核戦争、最悪中の悪、核が、それまで戦争の抑止力(!)としてあった核が、使われるかもしれない情況にあったら、きみの死さえ早めてしまうことになる。
 愚想だろう。でもわたしは、きみが戦争に反対、全身を込めて反対の表明、していただろうと思う。きみの精神的血縁者、ニーチェもきっと、血潮を熱くさせて反対、戦争を止めるべく意志を表わしていただろう。

 なぜなら、きみも、ドイツの哲人も、客観と主観がい交ぜになるほど、広い視野から世界を観じていたからだ。
 キリスト教に対する攻撃は、それ自体がきみらの目的ではなかったはずだ。正しいこと。人間であること。今ある問題を、超えていくこと。それが、あの攻撃の、攻撃をさせた根元だったと思う。
 間違ったことが行われている今、きみらがそれに対して何もいわないわけがない。

 しかしセーレン、あまりにも、あまりにもだよ。どうして止められないのか? 感情的にならざるをえない。どこまでも、そんなに、エゴイストになれるものだろうか?
 日本でもね、ずいぶん差別があったもんだ。江戸時代に、えた・非人とかいって、または農民が、とんでもない扱いを受けたものだ。上に立つ人間どもは、農民がいなけりゃメシも食えないくせに、悪辣な税収をし、ひどい扱いをしたもんだ。

 今戦争を続けている奴らに言いたいよ。それでどうなる、支配してどうなる、わがものにして、それでどうなる?
 もともと大地なんて誰のもんでもない、人にはひとりひとりの意思があり、自分の思い通りになんか動かない。それを、それを、だ。
 この野蛮さに、どう対すればいい?
 ブッダは言ったよ、この世の怨みは怨みをもって静まることはあり得ない。怨みを捨ててこそ静まる。これは永遠の法である、と。

 しかし…
 ソクラテスも、戦争体験者だ。戦死者、死体の転がる廃墟を、怒、怒、怒といった、物凄い形相で歩き続けたらしい。
 セーレン、きみは「ソクラテスで止まったままではいけない。先へ、進まなくては」と言ったね。哲学を、きみは独自の仕方で展開した。
 ひとりひとりの人間には、その可能性があるはずだ。その可能性を、頭ごなしに踏みつけ、発芽を拒ませるものは何なのだろう?
 所有欲、恣意、独善にみちびくものは、何なのだろう?