(14)「ほんとう」ということ

 さて、セーレン、きみからわたしが確かに感じ取る「ほんとう」とは、いったい何なのだろう? それは全く、「ほんとう」としかいえないものだ。まるで理屈ではない。でも、きみの奏でる、いやというほど奏でる、長い長い理屈によって、それを通じてわたしは「ほんとう」を感得する。
 あのわけのわからない、読めば読むほどうんざりするような、きみがきみの思考をどんどん巡らしていく、あのスピード、止めようもなく突っ走り続けるきみの思考に、わたしは必ず悔しい気にさせられる。理解できないからだ。否、理解できる部位は、ところどころある。でも、ほんとうにそれを、自分が理解しているのか? といえば、自信がない。

 わたしは、理解しているのだろうか。理解している、と言えない。それなのに、どうして「ほんとうのことをきみが言っている」と「わかる」のだろう?
 きみを理解するには、聖書はもちろん、カント、ヘーゲルを経由しないと、とも思う。が、自分に残された時間はそんな長くない、というより、きみの著作をまずぜんぶ読むべきだと思うのだ。
 それとも、きみのいうように、「私のいいたいことがわかった読者は、さっさと読書を中断して、自分のやるべきことに勤しむように」を実践すべきなのだろうか。
 きみのことを、「原始林の魅力」という識者もいる。「忘れられた思想家」、また現代におけるきみの意義として「人間性の回復」も謳われている。そして「事実においてキルケゴールは、今日ではもはや全く読まれていないといっていいだろう」とある学者はいっている。

 だがわたしは、きみが日記に書いた、
「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ」ということ、「まず決断すべきことは、神の国を探し、それを見つけることだったのだ」ということ、「もちろん私はまだ私みずからを内面的に理解するには至っていないけれども、その意義に対する深い尊敬を抱き、私の個性を守ろうとつとめてきた」──

 きみ自身のこの言葉に、わたしはわたしの今までの、そしてこれからの生きるべき道を示唆されるように思うのだ。
「ほんとうに真理につかえようと欲する者は、だれでも殉教者である」
 そうしてきみは、どんどん孤独に陥っていった。
「衆のあるところ、すべて虚偽なのだ」
「私はたった一人の人にさえ私を理解させることができないという、バカげた人の世に、ひとりぽっちでいる」

 しかしセーレン、わたしには、きみのいうこのバカげた世は、みんな誰でも、ひとりぽっちなんじゃないかと思うよ。
 きみを、きみだけが孤独者だと思わせる、強い迫害がきみにあったことはみとめる。でもセーレン、かれらも、きっと、孤独者だったよ。
 でもやっぱりきみは自分を殉教者とした。それというのも、あの誤解、思い込み、自分が34歳以上は生きられないのだという信念につくられたものなのだろうと思う。
 きっと、わたしにも必要なのだと思う。
 いついつまでに、きっと自分は死ぬのだという、その事実・・をつくるということが。