これは、じつは文庫本のくせに1500円もしたのである。
しかし「個人的な体験」の後は、これを読む必要性を感じたのだった。
「個人的な体験」は、さほど残らなかった。
よっぽど「われらの時代」(これは筆舌に尽くし難い)、「アグイー」のほうがいい。
しっかし、これほど、ひとつの描写に言葉を必要とするか、というほどの粘着力、執着力には、ほとほと心酔する。
椎名麟三の毛細血管、大江はしかと継いでいる。
イイんだな、とにかく。
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大江健三郎と椎名麟三の接点、というと接点なのだが、大江のイトコは発狂し、父は自己幽閉のうちに死んだ、と、「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」にあった。椎名麟三は、母が鬱病で自殺し、父も自殺している。
だが、大江も椎名も、大江はまだ生きているが(おそらくしっかりと)、椎名麟三もチャンとほとんど老衰まで生きたのである。
大江と椎名の文を読めば、こだわりに気づく。
死とか狂気とか、そんなこだわりではなく、物事への、こだわりだ。
事象へのこだわりだ。それへの、そこからの、意味、を、本質から事象、事象から本質への繋ぎ目を、
そこには何もないとしても、その繋ぎ、糸を、まさぐる。
まさぐり、まさぐり、まさぐる。
そこに、ぼくは叫びを聞く。
媚のない、追従・オベッカ笑いの(2、3ミリはあるにしても)、ない、叫びを聞く。
※ 大江の場合は、ここだけは太宰と似ていると思うのだが、フィクションなのかノンなのか、分からない部分はある。