子どもの頃に、一度会った。
その人は、じっと兄の本棚にあって、ぼくにとって気になる存在だった。
何冊か、その人の本を買った。
難しくて、読めなかった。でも、そこには、ホントウのことが書かれていると感じていた。
もう数十年、そのまま手をつけずにいた。忘れていた、と言っていい。
けれど、ふいに、手に取って読んでみた。
自分の中に、その人がいたことを知ったのは、その生涯について書かれた中で、彼が町を歩いていた時、通行人からバカにされる場面を目にした時だ。
ぼくは、会ったこともなく、たいして読んでもいないキルケゴールが、バカにされた時、ほんとうに腹が立った。キルケゴールをバカにするな!
あんな感情をもった自分自身が、よく分からなかった。
そしてその「哲学的断片」を読み始めて、やはり難しかった。
だが、この人の書く哲学は、読むのを挫折したヘーゲルと違い、血が、暖かい人間の血が、通っていると感じられてならなかった。
哲学的なものを、学問という範疇におさめず、自分自身にひきつけて、そこから厳しく哲学を見つめ、ヘーゲルやキリスト教を批判し、究明しようとしている…
彼は言っている、「もしこれを読んで、もうお前の云いたいことは分かった、と感得した読者は、もう読むのをやめて、それを生活に生かしてほしい」と。(これはぼくの解釈)
「老子荘子」で湯川秀樹が言っていたが、思想というのは、自由であることが基本だ。キルケゴールを読んでいると、それが強く感じられる。
その言葉尻を額面通りに受け取って読むには、難しいと思う。
でも、その言葉尻は、尻として、その頭を、自分の頭にひきつけて読んでみる。
キリスト教=自己、は「自分がつくった概念」であるから、自分自身が正しいとする自己、として読む。
師、という言葉は、自分自身を導く自己自身であって、師は他者として存在する言葉として読まない。
必然性とは、「自分の存在を自覚する以前にあった自己自身」であるから、現在ある自分とは違うということ、云々、要するに、ぼくの頭で理解できるように読めるように、「自由に」考えて読んでいる。いや、そのようにしか、読めない。
キルケゴールの読み方、というような小文を、長々と書きたい衝動に駆られる。