トイレで男は座るのか

 某調査によると、そのアンケートに答えた6割の男性が「小をする時、便座に座る」らしい。
 我が家でも、家人が「座ってしてほしい」という要望を以前から出していた。
 だが、座ってすると、どうも調子が悪く(残尿感、出が悪い、タマタマも拭かなければならない、いちいち脱ぐのが面倒、等)、彼女が家にいる時は座ってし、不在の時は立ってする、という、こすい真似をしてすり抜けてきた。

 だが、同調意識の高い生粋の日本人として、6割もの男性がトイレで小用の際、座るのか── そう思うと、立ってする自分が間違っているように思えてきた。

 だが、やはり面倒臭い。できれば、立ってしたい。
 パンツには、ちゃんとそれ用の出口も用意されているのだし、その恩恵にあやかりたい。
 何しろ子どもの頃から、ずっと立ってしてきたのだ。習慣を変えるのは、ただごとではない。

 しかし、この習慣が、一緒に暮らす人の不快に繋がってしまうのであれば、変えるしかない、と、本気で思える今日この頃。

 家の中では座ってし、公共の場では座らずに、と、使い分けて、やっていくしかない。
「使い分ける」という習慣を、身につけなければならない。

 昔、「そこまで言って委員会」というテレビで、このトイレ問題について老政治評論家が、
「いやあ、男は家族を守るために戦ってきたわけですからね、狩猟時代から。
 立ってするのは、後ろから猛獣が来ても、すぐ応戦できるように、ね。
 座ってたら、やられちゃうでしょう。ぼくは、座りませんよ、そんな、情けない」
 というようなことを言っていたが、ちょっと面白かった。

 だが、もう、男も女も、ない時代なのだ。(厳密には、性差から来る、感性的・生理的な、存在の根源的な違いというのは、どうしてもあってしまう気はするけれど)
 いやいや、そんな時代云々ではなく、同じ一つ屋根の下にいて、相手を不快にさせることは、できる限り少なくしていきたい、それだけで、いっぱいいっぱいである。

 昭和の時代の実家は、和式のそれで、床も壁も木の板で、祖父も父も兄も、立ってしていたと思う。
 祖母や母はずっと耐えていたのだろうか。

「座らないと、調子が悪い」という男性も、増えているらしい。
 調子は、習慣から成り立つ。調子が良い、悪いも、それまでと「違う」と感じることからの、良し悪しだ。

 ものぐさな自分としては、便座に、ジャバラ式で着脱可能な「飛び散り防止カバー」が取り付けられればなぁ、と妄想する。
 それを洗うだけで、簡単、清潔。
「座ってなんかいられない、戦う男のための、小用カバー」。
 いえ、もう、モノには頼らず、自分が変わります。