介護の仕事の頃(6)近隣地域で介護ができれば

 先日、ある人の介護を終え、「まったく手間の掛かる人だわ」と職員が言った。
「まあ、手間の掛からない人は、ここにはいませんよねえ」と私が言った。
「そりゃそうね」と彼女が大笑いして言う、「でも、ここに入れるだけでも恵まれてるっていうわね」

「うん。でも、できれば地域で介護ができるようなったらいいなあ、って思いますね。ヒマな人って、いると思うんですよ。そういう近所の人たちが、かわりばんこで介護が必要な人の介護をする…」
「あ、それいいわねえ。みんな、トシをとるんだからねえ」

 私は、近所にそのような老人がいたら、本気でその方のお世話をさせて頂きたいと思う。銭湯で知り合った老人が、「オレがボケたら介護してくれよ」と冗談まじりに言っていたが、喜んでしたい。
 そんなに金銭的に余裕があるわけではないが、報酬など「気持ち」で充分だ。こちらだって、気持ちでやらせて頂くのだ。

 お金がなくては入れないなんて、今まで長く生きてきた人達に、失礼な気がする。
 認知症で困っているご家族の負担も、近隣の人達が協力することで、少しは軽減されるのではないか。

「終の住処」として老人ホームが存在している。確かに自分が誰であるか、面会に来た家族のことも、わからない人もいらっしゃる。頭の中は、常にどこかに旅に出ている。
 しかし不意に、「いつ帰れる?」とか、「帰りたい、帰りたい」と帰宅願望があらわになる時もある。

 そのような時、返答に窮する。うまい人は、うまく応対してかわしているが、どうも後味が悪い。
「刑務所のようなものですからね」という人もいる。

 100年か200年位後、これは私の理想だが、老人ホームがなくなって、地域ぐるみで何かお世話ができるようになればいいと思う。
 生まれた所、あるいは長く住んだ、勝手知ったる家で最後の時間を過ごすほうが、どうもいいのではないかと思われる。

 ご本人が選択するのが何よりだが、当人にその判断ができない場合、まわりが想像力をはたらかせて、本人にとってこれがいい「だろう」と思える方向へ向かう。
 このような「だろう」関係は、何も老人に限った話ではない。
 健常者(!)どうしだって、このような関係で成り立っているのだ。

 50年後には、ロボットが人間の顔をして、オムツを替えたり食事介助をしているのかもしれないが…