介護の仕事の頃(7)完璧を求めないということ

 私には完璧を求める癖がある。それによって、不安が増大するし心配にも事欠かない。
 たとえば今日は便の量が少ない、通勤途中に催したらどうしよう、勤務中に便意に襲われたらどうしよう、という具合に不安になる。

 そして仕事のこと──オムツ交換を私は完璧にできているのだろうか。お風呂の際、機械操作・手順、ムダな動きをいかに省いて効率よく出来ているだろうか。食事の分量、各自違うスプーン、箸を完全に覚えられているだろうか。
 考えただけでドキドキする。想像が、私の呼吸を荒ぶらせる。

 しかし結局、オムツは漏れなければいいのだ。お風呂は、流れに任せて、それこそ自然に考えて、ムリなくこなせばいいのだ。
 難しく考えて、単純なことをややこしくさせることはない。むしろややこしいことを単純にすることの方が肝心だ。

 想像によって不安がうまれる。

 完璧を求めて、よし完璧にこなせたとして、ほんとうにそれが完璧かどうかなど、知る由がない。
 相手にとっては、不完全極まりないものかもしれないではないか。
 中道がいい。ほどほどに。適度に。適当に、よい加減に。

 中途半端を許せないとしたら、窮極のところ「生きるか死ぬか、それが問題だ」に行き着くだろう。
 右か左か、上か下か。そんな二元論にあてはめられるほどの存在ではない、ニンゲンは(!)

 まったく山の奥に、誰もいない所でひとり住んでいたならば、完璧というのはあり得るだろう。
 物事の基準、ものさしが、「私」だけの世界。そこに生きていない以上、完璧はあり得ない。

 つまり私の目指す完璧は、客観の要素なくして成立しないのだ。これを弱さと見るか意思の希薄さと見るか、それも私の知ったところではない。
 ただ私にできることは、自分ができることをするだけである。他に、何ができるだろう。自分以外にはなれない。それでも、なろうとする。なれずに、失望する。欲が、根源にある。完璧を求めるのは、その最たる欲だろう。

 完璧なんか無い。でも、それに近づこうとする。そんな姿勢でいた時期もあったが、無いものにどうして近づけるだろう。
 むろん、現実にある「物」としての何かはある。物理として、「こうした方がいいに決まっている」と万人が思う一致点はある。それについては、私も近づこうとしたい。

 形而上と形而下。どうも、これが「メリハリ」と呼ばれるもののようにも思う。労働現場においては、なおさらに。
 いや、生きるということ全般においても…