読者は上から、書き手はへりくだり

「Yahoo知恵袋」も昔はまじめに質問が、そして答える側もまじめに応答していたとか。

 あまりこの知恵袋は見ないが、今やレベルのようなものが落ち続け、どうでもいいような下らない質問に、かろうじてまじめな返答(?)があるという、そんな程度になったとか。

 たぶん小説投稿サイトにしても、最初はまじめな(「まじめ」の定義は置いておく)作品が多かったのかもしれない。が、結局軽い、そして異世界ファンタジーという、僕にはわけのわからないジャンルが確立された、そんなイメージがある。

 ライトノベルというものも、やっぱりよくわからない。

 もちろん漱石や大江、太宰やらドストエフスキーやら、「あの頃」と比べれば、だいぶ「軽く」なったろう。

 いつ頃から「軽く」なったのか、僕にはわからないけれど、柴田翔、庄司薫、村上春樹と「読み易い」文学みたいなものの流れがあるのは分かる。

 1つのテーマを追求、重く、読みにくく、読者が時間をかけて追わないと、理解できないような作品。好みがあるのはどうしようもないが、この作者は!と、心身に入って来る、そしてわけもわからず追って、読まずにはいられないような作品…

 時代、その影響はもちろんあろうけれども、いかんせん、いかにも「軽い」という印象が拭えない。

 何のために書き手が書いたのか、さっぱりわからない作品も多く感じられる。要するに、「売れるか売れないか」、ネットでは「いいね!が沢山つくかどうか」、それだけにしか「価値」がないのだ。

 悠長な時代が終わった、ようにも感じられる。じっくり、一つの作品を吟味したり、一人の作家の膨大な作品を追う… そんな「読む」作業より、ただ刹那的に、その時だけ読めればいい、他にも沢山の作品があるから、もっと「読める」ものを探す。

 ネット小説に限って言えば、そんなふうに読者が作者・作品(たぶん作者にはそんな興味はない。あるのはその時読む作品が面白いかどうかで)を選別しているような気がする。

 また、ネットで小説を書いている人は「小説家志望だろう」という先入観で読者は見る。

 で、どれどれ、こいつはどんなもんを書いているのか、という、上から目線、最初から自分が上に立っているという、そこから作品を見ていく。どんなに作者が死に物狂いで書いていようが、そんなことは読者にはどうでもいいのである。(これには、もちろん筆者の筆力が大きく左右もするだろう)

 まったく、ネットの影響は計り知れない。ネット社会というよりも、人間がネットに乗っ取られた、ネットによって成立した社会、ネットによって出来上がった人間、そんな世界に生きている気がする。

「いいね」というのは、一体、何がいいんだろうか。僕には、やはりわからない。ただ自己承認願望を満たし、要するにただそれだけの、自涜行為に思われる。

 僻みではない。僕は「いいね」の集まるシステムを知っているつもりだし、そりゃ貰えれば嬉しいが、はたしてそれがほんとうに「いいね」なのかが疑わしい。自分に限って言えば、ほんとうに「いい」と思って「いいね」を押してくれていると信じたい。全く、押されなくなったけど。

 自分も刹那的に生きてきたけど、これでも人間のこと、人のことを考えてきたつもりでいる。

 でも、ほんとにそんな、人のことを考えず、というか、こういうシステム、こういうシャカイなんだから仕方ないじゃん、とほんとに割り切っている、そういう人が多いような気がする。

 そんな、割り切れるものなんだろうか、と思う。

 自己満足、そりゃ当たり前だ。認められたい願望、それも当たり前だ。助け合う、いいねをもらったら、こっちもいいねを返す、僕も義理みたいにそうする。

 でも、割り切れないものを感じる。自己満足ヨシ、承認願望ヨシ、「助け合い」ヨシ。…ほんとにヨシか? そこに、何の異和感も、何か引っ掛かるものもなく、ほんとに心底からヨシと思えるものなのか… 僕には、やっぱり分からない。