一致

 しかし困った。「困る」原因を省察すれば、ほぼその気持ちの9割が、「これからもこの状況が続くのか」という、想像から来る不安である。

 ほんとうに困っている時は、たとえば隣室からの騒音であれば苦情に行く。病気の痛みに苦しむ時は、呻き声をあげ、救急車を頼む。「その時」それ以外にできない、選択の余地なく、その行動しか取れないものだ。

 だが「困る」、これは、「困る」ということができている状態、と言える。犬のフンに困っています、モグラが出て困っています、…あと、ほかに何だろう。

 誰かに何か言われて、「それは困ります」と言い返したりすることもある。が、それも「これから」困ることが予知できたから言えたのであって、その時はただ何か言われて「それは困ります」と言い返せたのだった。

 逆の立場で、ずっとコレに困っていた人が、その原因たる犯人を見つけた場合は、やっと見つけた、自分を困らせていた因を見つけたことに喜ぶだろう。その状況がどうあれ、たとえば下着ドロボーなんかの現行を見つけた場合、警察に通報し、犯人の特徴を告げ、その後の捜査、犯人逮捕への期待ができる。

 勇ましく、自信のある人は、その場で捕まえるだろう。それまで、その人は困っていたことは確かだが、死ぬほど困っていたわけではない。「困る」ことには、まだ何らかの対策がとれるし、下着ドロボーの場合は室内に干すとか、モグラ対策の場合は忌避剤を撒くとかして、まだ何らかの対処ができる状況にある。

 だから「困る」というのは、まだ余裕がある状態なのだ。

 騒音の場合、いつその音が来るか、来るかとビクビクしている時に「困る」のであって、いざ音が来た時は、また違った感情になる。現実に、その音が現れたからだ。

 家(ぼくの)の場合、夜の12時近くに近所の犬が吠える。11時半位に寝ようとしても、ああ、またあの犬が吠えるか、と思う。すると眠れなくなる。起こされる、と想うからだ。でも、吠えない日もあったり、吠えても爆睡している時もある(と思う)。

 だから「困る」というのは、ほんとうに困っている、というより、そんなに困っていない、困ろうとすれば困れる、でもどっちかといえば困っていないことはなく、困っていないと言えばウソになるから、ほんとは困っている、というふうな心理であろう。

 考えなければ、大抵は困らない。身体の苦痛は「困る自由」を奪う強力なものだから、自分の力だけではなかなか対抗できない。でも精神的な痛苦、「困る」の最果てにはこれがある、ここにたどり着くと思えるが、精神的な苦痛も、極まれば肉体と同じく、自分の力ではどうにもならない壁になる。

 そもそも肉体と精神は何か、と考えてみよう。

 肉体は生きたがる。死にたいなぁ、と言っていた人が、居酒屋に行った時、メニューを見て「野菜も食べなきゃ」と言ってサラダを注文したりする。ぼくも、死にたいなぁ、などと夜中に思いながら、翌日の夕方には健康面を考えた食事を摂っていたり、「やつめホルゲン」なんかを飲んだりしている。

 カラダとアタマの中は、そもそも分裂しているもの、と考える。

 時間によって変化するのは同じだ。細胞は生まれ変わり、思考、気持ちも変化する。

 ただカラダは、たんたんとその仕事をしているのに対し、アタマ、気持ち、精神といったものは、たんたんとしない。死にたい、エッチしたい、笑いたい泣きたい、淋しい、不安だ満足だ安心だ、落ち着いた、焦る、なんだアイツは、あの人イイ人だったな、ああ、あの頃は、今は、明日はこれからは、と忙しい。

 カラダとココロが一致している時とは、どんな時だろうと考える。

 そして一致し、その時があったとしても、──食べたい物を食べた時、殴りたいヤツを殴った時(これは例えでもイケナイことだが)、結婚したい相手と結婚した時、散歩をしたいと思って散歩をしている時── があったとしても、はたしてそれはほんとうに一致しているのか、疑問が残る。

 まずそれはその時にすぎないということだ。そして、その時間は過ぎる。

 また、その「一致している時」、その時間はどこにあるかということだ。食べたい、結婚したい、散歩したい、この対象は物であり相手であり歩くコースである。それを「考える」「思う、想像する」時間がある。

 この時間は、まだ一致前である。で、この思い、計画、つまり「こうしたい」ことを実現させたいと考えることができる。

 その時間を経て、食べ物が、結婚が、散歩が、実現するわけだ。叶わない時もあるが、あくまで「一致」について書きたいので、それは置いておく。

 さて、いざ実現する。それは、ほんとうにアタマとカラダの一致なのか? どうも、こう書いていると、違うようだ。それは単なる「自分がしたかったこと」の実現であって、「したかった」という過去の実現であって、「したかった」アタマと、それを実現しているカラダ乃至結婚、散歩は、「過去に捉われた(捉われ続けた)アタマがただ喜んでいるだけであって、肉体の方はキョトンと、アタマに道連れにされて、ただそこにあるだけではないか?

 食べたかった物を食べている。結婚したかった相手と結婚した。散歩したいコースを歩いている。これらは、過去にしたかったことを今している、できたというだけで、それによって「一致した」「実現した」と、やはりアタマが考えているだけではないか。

 ここに来て、一致と実現という、新たな問題が出てきた。思いが、それまでの願望が、念願が、したいことが、こうなりたいと思ったことが実現した時、それは思いと現実が一致したということなのだろうか。

 いったい何が一致したのだろうか。実現は、ほんとうに一致なのだろうか。

 ちょっと、そろそろ寝たい。寝たい私と、この身体が一致した時… 私は、一致している自覚を持たないだろう。