いかんいかん

 ブログ村の公式ツイートを見てしまってから、どうも調子が悪い。いや、気持ちの調子は良くなった、でも何か書くにあたっての「調子」が。

 どうも構えてしまう。そんな、読者が増えたわけでもなかろうに、妙に意識してしまう。

「見られる」意識か。今までだって、この意識はあったはずだが…。

「読まれたい」欲が大きくなったのか。下手な文は書けない、そんな角張った気持ち、さらには「見られる→ もっと読まれたい」、ランキングの上位によく見受けられる、「共感し易いような記事」「こうするといい」的マニュアルのような記事、「自分はこんなに大変なんです的、読者が自分と比べて優位に立てるような記事」…

 そんな、やたら読者にコビを売るような、「読まれ易い記事」を書きたい誘惑に、駆られてしまっている気持ちもどこかにある。

 そしてそんなことを書いたからって、という気持ち。自己でなく、他者に重点を置いて書く姿勢…

 そういうふうに書くのも大変だろう。こう書けば読まれる、そんなものは無いと思うし、そういうふうに書ける人はきっとすごい努力をして、ほんとに頑張っている人のように思える。僕には無い才のある、だから羨ましくも思え、またどこかで「でもそれは違う」と思いたい、信じたい気持ちもある。

 そう、「こういうふうに書けば読まれる→ 自分もこう書こう」と、ファッションの流行みたいに、整形して「これが可愛い」という顔になるように(それが悪いとは断じて言わない、全く個人の自由だ)、そんなふうにほんとになれる── そういう人に、微量な嫉妬も感じているのかもしれない。

 が、それよりも、そういう流れに対して「?」という、なんでそうなるの、という疑問、変わらんなァという上から目線、きっとこれは上から目線だ… うんざりというか諦念というか、いたたまれないような気持ちも自分に感じる。

 そう、人を見ることは自分を見る。

 なんでそうなるの、は自分に対しての疑いで、変わらんと思うのは自分への嘆き、うんざりする気分は自分に対するうんざりで、諦念はほんとうには諦め切れない、自分への固執だ。

 といって、人を、そんなに見ているわけでもない。パッと見、印象からの、それだけのものである。

 そしてそんな、軽薄のような、自分の感得したもの、印象とやらを自分は信じている。

 ほら、何が云いたいのか分からぬ文になる。何が言いたいのか? 相手は、いないよ。

 いるのは、自分が想像している「相手」であり、想像している「世界」であり「多くの人」であり── つまりはここ、六畳間の机の上のPCに向かい、何やら考えている己、この一人だよ。