介護の仕事の頃(12)心と金銭

 お金というと、心と対比されて、いささか弱い立場にあるように思われる。お金より、心が大事などと言われる。
 というのも、お金をいっぱい使いたい、貯蓄したいとする人が一般的であって、お金自体に罪はなく、心は不定形なものでどうにでも捏造が可能だからだろう。
 犯罪の動機として利用されるのも、お金の悲惨な立場である。金銭達は、何も悪いことをしていないのに。

 まったく、お金は必要である。しかし、必要以上には必要ではない。安心したいからといってせっせと貯めたところで、あの世に財布は持って行けない。財産を遺したって、相続人がいなければ国が引き取り、どうでもいい道路工事や選挙のワイロ等にでも使われるのがオチだろう。

「善悪」というものは、時代によって変わる。戦国時代、誰が人を殺めることを悪としただろう。
 長く生きるのがよいとされても、それがほんとうによいのだと多くの人が考えているだろうか。
 あるものは、それを使う人間個々によって、善くも悪くもなる。杓子定規で、「これが善悪」とエラそうに、永遠そうに言い切れるものは何もない。

「正/不正」も「善/悪」も、たいそうなものでなく、「ヨシ」「イヤ、オカシイ」と換言できる、日常的に最も判断が容易な、最も身近に感じられる自己基準であるように思う。だからいっそう、重いものと言い得るだろう。
 不正。これは、何なのか。嘘をついたり、人にイライラを当たり散らしたり、影で人の悪口を言ったり愚痴を言ったり、要するに人にイヤな思いをさせるのも不正である。
 ところが、こうも「してはならない」ことにがんじがらめになると、意識の上で息苦しい。些細なことで、私は人に迷惑を掛けていると思っている。

 そこで自分を調整する時間の出番である。意識によって自分は苦しいと自覚するのだから、その苦しさによって人に迷惑を掛けるのだから、その苦しさを和らげればいいのだ。
 その苦しみの原因を吟味する──

 昨日、私は道を歩いていて、ひとりの中年の男にジッと見つめられた。彼は犬の散歩途中だった。犬が立ち止まっていたせいもある。6、7m先からずっと、私が彼の横を通り過ぎる時もずっと、彼は私を無遠慮に見つめ続けていたのだった。

 私は、何となくイヤな気持ちになった。普通の地味な紺色のジャケットとGパン、肌色の帽子の私に、特に不審者と思われる理由はないように思われた。
 彼の執拗な視線から離れても(私は曲がり角を曲がったので)その後10分ほど、私はずっとイヤな気分のままであった。
 だが、この気分をよく見てみると、ただ中年男に見つめられたことが原因だった。
 そして彼が一体何のために私をじっと見ていたのか、それを知る由がなかったのである。

 つまり私は、知らない男の、知らない心の、知らない目線によって、嫌な気分になっていたのだ。
 しかし、これはなかなか手強かった。彼に私を見つめさせた原因が分からないからである。だが、銭湯に行き、顔見知りの老人達とよもやま話をして笑い合っているうちに、嫌な気分が遠のいて行った。

 音楽、スポーツ、日向ぼっこ、森林浴、読書… 自分を調整する手段はこの世に沢山存在する。それを、こちらが自分に気持ちのいいように合わせて、使っていけばいいのだ。
 お金も、まったく使いように依る。自分にとって「正しい」判断の元に使われれば、お金も喜ぶ。私も喜ぶ。後ろ髪を引かれるような使い方をせず、正しい心で使われれば、心が喜ぶ。お金を大事にすることは、生きることを大事にすることになる。
 ただ、あまりにそれをし過ぎないように、求め過ぎないように、と自戒しつつ。