思考のカテゴリー

 どうでもいいことを書き連ねよう。

 昨日、東京からの新幹線内、── 通路を挟んで三列シート、二列シートの座席があるわけだが── 車内アナウンスで「混み合っていますので、座席に荷物などを置かず、なるべく多くのお客様が座れるよう、譲り合って下さい」が流れる中、平気で三列シートを一人で占有している中年紳士がいらっしゃった。

 よく会社で見かけるような、課長だか部長だか、偉そうな地位にいるのだが実は偉くも何ともないという、そんな人間味(?)みたいなものが顔に現れているような雰囲気のある、中年を過ぎてちょっと歳を取りました、という感じの男性であった。

 私とパートナーは一号車の先頭座席、つまり目の前は壁の、けっこうイイ席に座っていた。だから振り向かなければ、車内の様子はわからない。

 だが、その紳士は私の斜め左後ろ、三列シートの真ん中の席に鎮座していた。窓側の席に何か置き、通路側にはキャリーケースを床に置いて。私がちょっと振り向けば見えたのだ。

 私は窓側に座る彼女に言った。「何考えてんだよ」

 彼女もさりげなく振り向いて見た、「あ、ホントだ」

 車内放送で注意を促されるまでもなく、もし座れない人がいるのなら、よけいな荷物を置かず、荷棚にあげるなり足元に置くなりするのが私にとっての「正しさ」だった。

 それを傍若無人に、何を余裕かまして、ここは俺様の席だとばかり占有できるのか?

 その神経が、私にはまずシンジラレナイ。いや、ワカラナイのだ。いや、わかる。何も考えていないんだろう。考えてはいる、気づいてはいるが、その自分を彼はごまかしている、見て見ぬふりをしているのだ。

 申し訳ないが、私はこういう「人に気を遣わない」人間が大嫌いなのだ。

 はたして、車内がそんなに混んでいたのかどうかは不明だ。「のぞみ」は「ひかり」に比べて自由席の車両が少ないし、速いから人気がある。が、立っている人はいなかった。しかし品川、横浜、名古屋と、停車のたびに新しい人だって乗ってくるのだ。

 それはそれとして、「何考えてんだ」ということ。

「考え」というのは、自分のことか他人のこと、この二つのいずれかに限定されるのではないか、と思った。

 本を読むのもテレビを見るのも、目にしているのは「他人」なのだ。その目に入ってきた「他人」から、自分の心が初めて動き出すのだ。

 その前に、自分だけの中でモゾモゾ動いている心(思考)もある。

 この新幹線の車内の場合、彼はまわりにそのベクトルを向けず、自分だけのことへ向けた。

 … まったく、どうでもいいといえばどうでもいいことだ。

 だがこういう図太いヤツが、私はどうにも苦手だ。「何考えてんだ」になってしまう。

 で、「考える」ということは── 自分だけのことを考えるか、他人のことを考えるか、この二つに、ひょっとしたら限定される、一つの思考のそれぞれの領域のようなものなんだろうか、と思ったわけだ。

 うん、どうでもいい話だ。きっとそうだろう。

 でも、この思考、心みたいなものによって私はけっこう苦しんだりしているので、やっぱり考えたいのである。