人は何故夢を見るんだろう?(寝てる時の夢ね)
朝目が覚めて、しばらく、その夢の余韻に浸ることがある。
「夢を追う」感覚。見ていた夢を、よく、もっと細部を思い出そうとしている。
大抵の夢には物語性がない。いきなり場面転換したり、なぜ夢の中ではそういう状況だったのか、まるで分からない。ただ瞬間的に、あの人と私がこんな話をして、まわりはこんな場所だった、と覚えているだけである。
しかも、なぜその人が夢に出てきたのか、まるで分からない。しかしほとんどの夢には、100%、「私」が出てくる。自分が出てこない夢はない。
夢の世界では、「私」なくして、世界が始まらない。
そりゃそうだろう。その夢を見ているのは私なんだから。と思う。
しかしその夢を見ている私は、布団の中でぐうぐう眠っているはずなのだ。
それなのに、「私」が夢の中にいて、あたかも小さな映画の主人公のように振る舞っている。
私は夢の中にいながら、それも悪夢であれば恐怖におののいている。
一方で、夢の世界にいないはずの、ただ寝床で横たわっているだけ私も、うんうん唸っていたり汗をかいたりして、挙句に飛び起きたりする。
この時、夢の私と、現実(どっちが現実か分からなくなっている)の私は、一つになっている。夢と現が、ひとつになっている。
だが、やがてそのほとばしりが冷め、はあはあ言いながら夢を述懐、回顧し始め、徐々に「ここが現実なんだ」と落ち着いていく。
「夢だったんだ」となる。
こんなにも汗をかかせ、唸り声をあげさせ、果ては「わあっ!」と叫んで飛び起こさせた夢。
… 現実、夢でないはずの現実も、同じようなものではないかと思える。過ぎたこと、過去になったものは、ぜんぶ。
過ぎた夢に固執し、それを忘れまいとしているのは、「今」の私だ。
夢は、ほとんど不可抗力に見せられた。でも、「可能抗力」をもっているのは「今」だ。
主体的に見ることのできなかった夢。が、今は、主体的に生きられる。
夢の中に生きていた私は、… もう「死んだ人」であるのだ。言ってしまえば。
「そうは思えない。だって、生きてるだろ、お前は」私が私に言う。「あの時のお前も、今のお前も、同一人物ではなかったか」
言いながら、私はおかしいなと感じている。同一人物ではなかった。夢の中の私と、寝ていた私は、違う、別々の私だ、と感じて。
「寝ていた私が見た夢だ。私が見た夢だ。私以外の、誰も見ていない夢だ。一人の私だけが見た。だから同一の私…」私は弱々しく、なおも反駁する。
「誰と同じだったのかね。同一人物とは、誰であり、誰であったのかね」私が私に、また問う。
「私とは、誰だったのかね」
私は、楽しくなっている。こんな会話ができる、私が私に。