さあ、いよいよ寒くなってくると、身体の扱いに気をつけねばならない。
寒さで関節もこわばる。身体はかたくなる。それを動かすのだから… 無理を伴う。グキリと腰をやられたり、発汗しないから新陳代謝も滞る。生命の停滞。沈殿、とまでは言わないが、活力、身軽さが損なわれ、身を動かすには大儀になる。実際、この身にも衣服を多く被せることになる。
クマみたいに冬眠できればいいが、ヒトはそうもいかない。年がら年じゅう、何か食べている。食べなければ、まるで死んでしまうように。
お金に困ったことがないボンボンな私としては、贅沢な生活に慣れてしまったのかもしれない。オカネより、ココロがだいじ、などと言えるのも、ボンボンの戯言かもしれない。
でもね。ボンボンはボンボンなりに、考えている。私は、このような生き方… 生活形態、とも言える… そんなカタチ、どうしたわけかそんな形の淵の中で生きてきた。これは私のせいではない。私の選んだ、選んで取って、この身につけたものではない。どうしたわけか、私はこのようなことになった。その中で、致し方なく、どう、しようもなく生かされてきた、と言っていいと思う。
こんなアマチャン、典型的な甘えん坊の三男、ひとりじゃ生きて行けないくせに「ひとりだ」などと言い張って、まわりの顔色をうかがうバカな男にも、考えがある。
私は死ぬ。いずれ、死ぬ。ユメかウツツか、現実か幻想か。その境界線を引かず、死んで行きたい。そんな線など、ないではないか。なかったのではないか、いや、ある時はあったし、ない時はなかった。が、ない時も、「ない」という時があった。要するに、あったのだ、ぜんぶが。
想像であれ、現実であれ、それは私が体験したものだ。それを私はホントウと思う。ウソであれホントであれ、私にとっての、いずれにしてもそれはホントウだった。
ならば最後、この生、さしあたって終わる頃、そのホントウの中に揺蕩って、どんぶらこ、どんぶらこ、私の波のまにまに漂っていたい。そうして、死ぬのだ。
私は、私のなかへ行く。と同時に、私は私でなくなる。私はきっと外へ行く。外へ行きながら、中へ行く。表へ行きながら裏へ行く。あっちへ行きつつ、こっちへ行く。
同時進行だろうか。あっちへ行くのは一体だろう。二体あるとしたら、こっちにも行けるが、その場合、時間差が生じるだろう。あっちへ行く一体。あっちへ行ってから、こっちに来る。私が、一体であるとしたら。
同時進行できるのは、私の意識だけだ。こっちと、あっちがある。それを同時に私は感じている。だが、そう感じている私は紛れもなく、この一体なのだが。
面白いものだよ、こんな考えられるということは。
面白いって、いい。面白いこと、大好きさ。こんなに、面白がれるのだ、ひとりで。
こうして楽しく、死んで行きたい。だからこうして楽しく── 生きたいものだネ。