瞑想するのも

瞑想するのも、身体あってのことだ。
半結跏趺坐した両ひざの上に、右手左手、掌を上に向けて置く。眼を瞑って呼吸を見つめる、音楽を聴きながら。
音楽に心踊れば、その踊る気持ちを見つめる。
10分も経てば真っ直ぐだった姿勢が曲がり気味になる。右腕少し違和感を訴えてくる、右足左足の組み重ねを変えてみたりする。小休憩して、また始める。
そんな繰り返し。

右腕は、ふだんPCのマウスをよくいじるから、「上を向く」ことに慣れていないのだ。
おかげで今日は右腕がおかしい。曲げ伸ばしすると痛い。歯を磨くのも左手でやった、朝、肘が曲がらなかったからだ。

こんな瞑想が、この姿勢が、果たして身体に良いのか?
ムリをせず… でも、やる。身体の赴くままに。掌を下にするか、右足を上にするか、そんなことも身体のしたいようにする。
こちらとしては、何もできるだけ考えず。

痛みは、たぶん悪いことでない。(きっと)

妙な方向に慣れてしまった右腕が、何か矯正される… するのか、されるのか、とにかくそんな気がする。
この「気」の赴くままに。
瞑想する。

カラヤンのセレナータ・ノットゥルナ、軽快だ。
初めて聴いた20歳の頃は、ただただ嬉しくなった。モーツァルトを聴ける喜びを知って。