とにかくもう、「私は」という主語は極力用いず、書く。
「些細なコトなど」なんか(あれも19年前に書いてたやつだ)、僕は、ぼくは、ボクは… I、 I 、I、のオンパレード! ああいう時期だったとはいえ。
この「まだ戦時下…」ではなるべく「私は」を使わぬよう書いてきた。もう、I には自分でもげんなりしていた。
I を主語にしない… 愛は大好きだけど… これは私生活でも同様だ。肝心なことだ!
《私》は容器にすぎない。四角の、三角の、丸の、いろんな容器があるが… それぞれの容器だ、ひとりひとりに限った。
そうして水は、その中に。
キルケゴール、荘子、ニーチェ、椎名さん、山川さん、両親、兄、友達、家人、スーパーの店員、タバコ屋… いろんな人の影響、水を、この容器は受けてきた。
そうしてここに、はたして《私》なるものがある。
それだけの話だ。
この頃、この容器はセリーヌの水を受けて。この水を《私》が欲している、受けたがっている。こないだ神保町で二冊も買ってしまった、東京駅から歩いて、おかげで体調を崩した、やたら風が強くって。
《私》が精神的な存在であることには違いない。自覚、気持ち、姿勢。
が、もともと、《私》なんて無かったのだ。
この気づきは大きい。
「観ずる」意味もだんだんわかってきた… 《私》は。
日常の人間関係も、あらゆる物との関係も、… つまりは自分自身との関係も。
《私》なんて無かったのだ。
「あるじゃないか?」
「いや、俺の言ってるのはもともと、のことだよ」
無かったんだよ。
だから受け容れることができて。
至るわけだ、今に。
自我なんて無かった!
こいつは戦争、諍いをなくす最終兵器だ…
何を我に捉われて争っているのか。
我執、我欲、我に捉われて。
そんな拘泥する我なんて、もともと無かったんだよ。