「壊れものとしての人間」、さらさらと… 読むにも体力が要る!
書くことについても、よく大江は書いている、その中でチラリとあった、「ぼくにとって書くことは自己の暗部を押し拡げていくこと」。
もちろん、これだけでない、書く理由は。その一部であるということ。
ブッダは闇の中にこそ灯(さとり)が見える、と言ったが。
セリーヌは暗部どころか、根こそぎぶちまけるようにそれを書いたような… 嘔吐、か。
モンテーニュは「わたしの書くのは排泄物だ」と言い…
暗部も、光を当てれば暗部でなくなる。それが即ち、書くってことだったのかな。探求するにしたって、わかってる道なんか行ったら探求にもならん。
《何よりもまず望むことは天が僕の行く手に様ざまの事件を並べてくれる波瀾に満ちた生涯を送ることだ
そして多くの人びとがするようにこの世に唯一つの面白くもない目標を屈曲のない生涯を全うするなんて死に方はしたくないものだ
そういう屈曲こそが精神の訓練を可能にするのだから
多分人生が僕のために用意している大きな難局をいくつも切り抜けて行けば僕は人より不幸ではなくなるだろう
何故なら僕は経験し知りたいのだから
要するに僕は傲慢なのだ
これは欠点だろうか、僕はそう思わないし、それは僕のために幻滅か、さもなければひょっとすると『成功』を与えてくれるだろう》
セリーヌ「リゴドン」読了。これは、その訳者解題にあった、セリーヌ十九歳の時に書いた手記。
人生は、それを生きる者の望むようになるというのなら、セリーヌは望み通りの人生を生きた、訳者の言葉を借りれば「満足した死」だったと考えても良いのではないかと、ぼくも思う。この「リゴドン」を書いた翌日、セリーヌはその生を終えた。
── わたしには、人生が自分の望み通りになるなんて思えませんね。
── そりゃあなた、自己の暗部をよく探っていない、よく見ようとしていないからだよ。よく探って、よく見ようとすれば自ずと明らかになる、自分のできることとできないことが。
できないことを望めば、そりゃ通らんだろうさ。だからその通りになってる、望み通りになってるってわけさね、あなたの!
「リゴドン」だったか「またの日の夢」だったか、同じようなことばかり書いているから分からなくなってるが、セリーヌがモーパッサンのことを褒めていたのは嬉しかった。
大江は、読むのがしんどくなった… でも読むんだろうけれど。
読書、考えることから得た《経験》と実生活から得る《経験》。どっちの経験が自分に大きな影響を与えているか? そんなことも書いてあった。大江の場合、前者だったような?
… 何にしても、ぼくもせいぜい、あと10年かそこいらだ。望むように、やってきたよ。
今日はパンを買いに行かなくちゃ、パートナーの。できれば米も。晩メシは何にしよう? 「働きすぎだよ」などと言われたが… 働いてんのは頭ん中ばっかりだ。