「虫けら」の由来

 要するに「人世は、彼らをはじめとするフリーメーソン、彼らが戦争も計画的に起こし、広告、テレビ、映画、文学賞もコンクールも、絵画も音楽も政治も宗教も商売もすべて彼らが気に入るもの、彼らの意に反するものすべては排除されていくのだ。民衆は頭がからっぽになることを望んでおり、それをあてがわれ、喜々としてそれに追従していくのだ。戦争万歳!」というのがセリーヌの主張… 後年、人類を愛し人類のために書いた作家といわれるセリーヌが、人類の敵と罵られるきっかけとなったパンフレット、「虫けらどもをひねりつぶせ」から始まる三部作で云いたかったこと… もちろん戦争万歳はセリーヌ独特の皮肉だ。

 彼らとはユダヤ人のことで、その政治家、ノーベル賞受賞者や文学における「成功者」、著名な音楽家、司祭、「売れる物」のつくられ方、等々、個人名を挙げて、これでもかこれでもかと攻撃をしている。
 その悪罵と罵詈雑言、よくぞここまで罵れるもの… という内容が、延々と何千ページに渡って。
 こちらとしては一ページ読んで青色吐息、うんざりげんなり。しかし読んでいると、思わぬ発見もある。それは不意に、何の前触れもなく訪れる。── ああ、この物騒なタイトルは、この主体はセリーヌではない、と。
 この世に悪、災厄をもたらすもの、それが何ものであれ、そいつがわれわれをひねりつぶそうとしているのだ、と。
 またそれはわれわれの中にあって(セリーヌに言わせれば教育・・され)、われわれの中の虫けらも含めて「ひねりつぶせ」なのだ、と。
 何の弾みでか、読んでいた時、不意にそう感じた。

 セリーヌがあれだけ憎悪し、そのように書き、折も折第二次世界大戦が始まろうかとする時節、ヒトラーくそくらえ、ユダヤくそくらえと言い続け── おとなしく小説を書いておればよかったのに… あの時あの社会情勢だったからこそ、叫ばざるをえないことだったろう。
 その根柢にはセリーヌのフランスへの愛、自国に留まらぬ人類愛があった。それなのに国賊作家、ナチスに買収された作家、などと罵られ、暗殺・法による死の危険にさらされ… まったく、いやはや、まったく!だ。

 ユダヤというものを、セリーヌは象徴として書いていたのではないか? ユダヤ人がこの世界への怨恨、うらみ、憎しみから、この世を牛耳るということ、同情も利用し、裏切りも屁とも思わず、人間の「悪いところ」を成長させるもの、その単なる形象、戦争になる時節に… ドイツ側につけば、自国からの死者もまだ、助かる生命もあるかもしれない、と考えたか…「真剣に考えろ」とフランス国民に訴えたかった… セリーヌの心には戦争に絶対反対する信念があったはずだ、でももう開戦は免れない、そんな状況下で、赤ひげのような医者であり文学者だった彼が生命を賭けるように声を挙げられることと言えば…

 現実的に考えろ。的にどころじゃない…、からっぽになるんじゃない、ほんとうの敵は… そこで「ユダヤ」を持ち出したとしたら、セリーヌはやりすぎだった。「虫けら…」の訳者が書いているように、セリーヌはばかだった。大ばかだった。でもそれ以上にばかものがいたんだ、いつもと変わらぬ、何千年たっても変わらぬ大衆、罪のない一般人、罪のない民衆が。

 大江の師匠のようなフランス文学者、渡辺一夫もセリーヌについて書いていた。思うに、大江は原書でセリーヌを読んでいたのではないか。「静かな生活」の連作の一つに、娘さんにいわせる形で書かれたセリーヌへの思い。
 排除するところから何も生まれない、成熟した社会は。
 このことをだれよりも知っていたはずのセリーヌが、ひとつの民族を心底から・・・・攻撃し、罵り続けるというのは、考えにくい──