ひとつの生の終わりには

 ずいぶんモーツァルトを取り上げてきた。
 このブログは「書いたもの置き場」になっている。同時進行している投稿サイト、ノベルデイズとともに…。部屋を開ける、私のだいじな我楽多… ドン・ジョヴァンニから始まって、物色… フルトヴェングラーの、ピアノ奏者は女性の協奏曲20番。クララ・ハスキルの24番、ブルーノ・ワルターの弾く20番、奇妙なリアリティに溢れるレクイエム、等々、等々。これらの演奏は我楽多ではない、置いた部屋、閉じ込めた部屋の雑然さが…
 中でも、とりわけこの二つの20番、ハスキルの24番、ワルターのレクイエム、この四つをよく取り出す。
 さらにはこの24番の第二楽章、これに生命奪われても本望と思えるほど、いやこれを聴きながら最後は死にたいものだ、やさしく、かなしく、包容される…

 モーツァルトはほとんど完璧な音符で仕上げているから、特にこの24番は誰が演じても変わらない気もするが(アイネクライネなんかそうだ)、いや評論はどうでもよい、この24番が好き、というだけで。
 20番もこの演奏がいい。
 ブルーノ・ワルターはその著書で「私にはディオニュソス的な自分とアポロン的な自分がいる」というようなことを言っているらしい。ワルターのジョヴァンニを聴いてみたが、まさに悪魔的な演奏だった。いや、たいていの人には狂っている部分があるものだ。大勢の人が狂えばそれは正気で。狂っていることにさえ気づかなくなる、意識しなくなる、フタをして平気な顔をする。

 最初、このレクイエムを聴いた時は、なんてひどい演奏!と思った。ベームのが完璧だと思っていたから。
 ここではこうだろう、ここではこうだろう… 私の基準がベームだった! それを絶対としていたら、そりゃ違和感も増大、「これは違う」となって当然だった。
 よくよく聴いてみれば、何かモーパッサンのような現実感、とっつきやすい… いいなぁ、となった。これがワルターのレクイエムなんだ、と。
 モーツァルトの影響でなく、〈死〉というものには慣れ親しんだ、いや親しむことはできていないが常に胸や頭にある自分として、やはりモーツァルトは特別だ。その conductor も、ワルター、フルトヴェングラー、ベームが特別だ。
 ピアノ演者は、女性が合っている気がする。
 テノールではペーター・シュライヤーさんが。「モーツァルト歌い」といわれているらしいが、何とも中庸を保った、それでいてどこか出るところは出る、実に絶妙で微妙な声をしている…
 評論なんか!
 ただモーツァルトが好きで、中でもこういうのが好き、というだけだ。24番、特にその第二楽章、ワルターの20番、フルトヴェングラーの20番… あの世に行くのも旅行気分、まったくモーツァルトは!