「夢十夜」

「自分はつまらないから死のうとさえ思っている。──(中略)── 自分は益々つまらなくなった。とうとう死ぬことに決心した。それである晩、あたりに人の居ない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが── 自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。只大変高く出来ていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。然し捕まえるものがないから、次第次第に水に近附いて来る。いくら足を縮めても近附いて来る。水の色は黒かった。
 そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。自分は何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することが出来ずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」(「文鳥・夢十夜」(新潮文庫))

 漱石は不意に、ふだん溜めていた死への想いのようなものを吐露する。
「こころ」の先生、「行人」の兄さん。
「猫」にしても、酔っ払って甕に落ちた吾輩君が、よじ登ろうと爪を立ててガリガリやる。つかのま浮き上がるが、すぐ沈む。また浮き、また沈む。沈むためにガリガリやってるのか、浮くためにやってるのか分からない。吾輩君は疲れ、「もう何もしまい」と決心する。なるようになれだ。そして水の中へ沈んで行く…。

 昨夜、寝床で読んでいて、漱石、やっぱりいいなと思う。
 ずっとセリーヌを読んでいたが、セリーヌはこちらの体力・気力に余力がないと、受けとめ難い。でも漱石は疲れていても入ってくる。
 寝床でぼくは思った、「死について何もふれていない文学はかたわ・・・だ」。
 同様に、死について考えることを避け、生きて行こうとするだけの人生も。
 生と死は同列なんだ。死の中に生はあり、生の中に死が。
 分け隔てなんか無いんだ。生命に、生きるだの死ぬだの、そんな区別はないんだ。