人間の発想、思うこと、書くこと喋ること、ほぼ変わらない。その自分がそう感じたことを、どう工夫してそれを形に、具象化するかの違いがあるだけ。
そこにはむろんそれに対する拘泥、執着、こだわりが出立点にあるが、どう足搔こうがヒトの限界を越えることはない。鳥には鳥の、植物には植物の、魚には魚の、備わった性能に従って生息する以外に術がない。それで十分すぎるほどで、人だけがどうにも他者と自己、個々人と個々人を比べ、優劣をつけ、わざわざこっちが良だあっちが悪だ、あっちが正だこっちが誤だと決めたがる。
それもただ、自己が優に立ちたい為だけである。他者は自己満足に必要な比較対象に過ぎない。個人の満足に比較が欠かせず、誰もがその自己を持っているから、個に収まらない。社会化する。学歴の優劣、企業の優劣、果ては、また元に戻って、個々人の優劣。
きりがない。きりがないのは満足したい要求そのもので、その時いくら満足したところで、時が過ぎればまた満足を求める。しかも前より一層、前の満足以上の満足を求める。きりがない。
ところがこの欲求によって人間は進化を続けてきたというのだから困る。
人間個々人の進化というより、物が進化、物だけが進化したように見える。物に使われる人は、むしろ退化しているように見える。人間も物には違いない。ただ物だけで出来ているものではない。それが、まるで物だけで出来ているように見える時がある。目に見えるもの、要するに結果、数字といったものにばかり捉われて。それも人間だという。人間だから、と。