2月24日

 ロシアによるウクライナ侵攻から三年が過ぎたという。
 早いも遅いもなく、とにかく時間が過ぎた。
 ずいぶん書く内容も変わった、でもこれは世が変化した、自分の見聞きする事柄のうちの一つだった。戦争が起きる前と後、このニュースを知らなければ、自分にとっては何でもない、何も変わらぬ「世」であった。

 身近にいる親しい人が亡くなったとしても、同じように、自分の書くことも変化しただろう。実際、した。
 一つの事が、ふだんの日常を決定的に変化させる? そうではない。長い目と想像力で見れば、戦争は繰り返されてきたことであるし、人の死も日常茶飯事である。
 それでも自分は感化される。された。戦争以外のことについて書くことは今書くべきことではないと思い、その想念が常に頭を行き来した。

 主体的にそう思ったつもりではなかったが、「べき」ことと「べき」でないこと、その選択を自分がしたのだということ。戦争以外のことだって、書けたからだ。
 それでも戦争以外のことは書きたいと思えなかった。課題文学賞のことなんかどうでもいいとしか思えなかった。

 その時自分は、自分で選んでそうしている・・・・・・・・・とは思わなかった。何かに突き動かされているようだった。それは自分以外のものに見えた。
 だがそれも自分だったのだ、と言い切れる。と書こうとしたが、何か靄がかかっている。その靄は、「そうかな?」という目でこっちを見て来る。

 この靄は圧倒的に大きい、圧倒するほどでもないのだが、自分がそこに包まれているからだ。
 まるでその靄は自分自身であるかのようである。同化したようである、靄に自己が、自己が靄に。判別不可能になった時、自分は探した── 何を? 自分自身を。自分自身であったところのものを。自分と思っていた自分を。それは過去だった。「今」にない、過去にあったところのものだった。

 そうして今も、過去、三年前の今日あの戦争が始まったんだ、と追憶するようにこの文を書いているのだ。今、この瞬間でさえ追憶している始末だ、「書こうとしていたもの」数秒前にそう思ったことを。
 繰り返し繰り返し、繰り返される。いったい何を繰り返しているものか、過去にあったことを反復し、「先へ」進みながら…「世」と「自己」、どっちが何であるのか、分かったものではない。
 分ける必要はないんだよ、と、靄の声が聴こえる。この耳が靄と同化する。
 わたしもあなたも、自分も他人もないんだよ。と。時間? 時間もね、と…。