しかし、だからといって自分は他と違う、他と異なりたい、皆と同じになりたくないという、「他者があってからしか始められない、我意しか持たない、我意にのみ従う自分」であることは単なるひねくれ者であり、けっして高みへ、永遠的な世界へ足の向くことのない、その目も持たない、要するに世俗のなかでしか息のできないもの、と言っていいだろう。
世俗、これは誰しも俗世間のなかでしか生きられず、これを越える者は死ぬことになる、と思うだろう。だが、そう思う、そうとしか思えないことこそ、すでに世俗的なのであって、俗世間にどっぷり浸かっていることになる。浸かることが当然である、それ以外にどうやって生きて行くのか?とさえ世間は言う。いや世間は何も言っていない、自分でそう思っている、自分でそう信じている、というだけなのだ。
そこに都合よく、まさに自己都合以外のなにものでもない、「皆がそうじゃないか、皆がそうしてる」という皆=世間・世界、この世、「全」的なもの(彼にとってでしかない「全」)を用い、要するに「他者軸」を持ってきて、自己の軸とすり替える──
それを自己欺瞞、自分に嘘をつく、自分を誤魔化すという、ずるく、狡猾で、卑怯な欺き、偽り、虚構、虚偽であることにさえ彼は自己都合の強固な意志で、しかもほとんど無意識に、咄嗟に覆い隠す。そのほぼ本能的とさえ言える自己の意志の働きにも、完膚なまでに無意識、見て見ぬふり、臭い物には蓋、を決め込む。この時、決め込んでいることにさえ全く目が行かない、その目さえ失っている、何しろ自分自身のことに目をつむっているのだから。
斯くして彼は自己都合のみに生き、「人はひとりでは生きて行けないものだから」だとか、「これは自分だけのことではない、私は私だけのことを考えていない、人のことを考えている、人のためでもあるんだ」と、とんでもない「善」を持ち出し、結局自分がただのさもしい、あまりに卑小な自己満足(まわりから自分の存在を認められて初めて得られる満足)にのみに依存して、それさえ「皆そうだろう」とし、その自分に疑いもかけられない以上、彼は死ぬまでそのままの彼であり、一生を終えるだろう。
自分の面倒をみることができるのは自分自身であるのに、その自分に目をつぶり、顔を背け、見て見ぬふりどころか蓋をする! そして自己都合の他人軸を持ってきて、それを自分の足に化かし、蓋の上を(この蓋から逸れることはできない、なぜならそれは自己自身、自己がその蓋の下にあり、蓋をしたのが自己であり、彼がそうした以上、彼はその自己の上に自己を行かせる以外にないのだから) 行くしかない。
彼はもはや永遠の世界、この「永遠の世界」という言葉にも無反応な、不感症であることにも気づかない、無自覚の完全体である。この「永遠世界」は宗教でも哲学でも倫理でも何でもない。この世俗をつくったもの、個人ひとり、個人ひとりをつくったもの、そこから見える、目にする「世界」をつくったもの、を感知する能力── これ自身、これ自体に目を伏せるかつぶるか、それでもそれが気になる「存在」であるかどうか、という自己自身、自己自体にのみ関わる問題である。
世俗的なものに協調、同調するか、そうでない永遠的なものと、それに引かれるように歩を進めるするか。(後者の場合、自己の意志はほとんど働かない。自己の中に、どんなに探してもそれは自己の中には無いものだからだ。この点、「他」に同調、協調すると一見同じにみえるが、その対象が全く違っている。後者の場合、その対象すら「いない」ものである。それに反し、前者、俗世的なものには必ず対象が、あたかも明確であり、存在し、時間のなか、存在のなかをけっして越えるものでなく、そこにあり、そこにあるという中に、そこにしかあり得ない、あることができないものである)
この「あれか、これか」の選択は、相当に重要なものだ。いや、選択をした上で、生きている、という自覚があればの話だが。これは全く個人個人、ひとりひとり、ひとりにしかできない、掛け値のない、この世で自分以外に為す術のない、自分自身にしかできない仕事なのだ。
きみはそっちを選んだんだね。ぼくはこっちを選んだんだよ。そうして、選んだのは、自己自身の生き方、根本を為す生存の土台、自己の立つところ、を「選んだのはほかでもない、この自分自身なのだ」という自覚、ここから始まること── 自己自身のほんとうの意味での責任、自己以外に、たれがこの自己に責任を持ち得ようか?── ここから始まる、人と人が、ほんとうに絡み合う、なぜなら自己以外に「ほんとう」を持ち得る者は無いからである── 世界というものを夢見るように想う。
それは幻想である。ほんとう、というものが幻想であるのかもしれない。いや、そうであろう。幻想であるから、ほんとうなのだ。
「ほんとうだ、こっちがほんとうだ、と皆が言い出したら、それこそ戦争になるじゃないか」と、あなたは言われるかもしれない。だが、これが幻想であると分かっているのなら、幻想に対して、ほんとうというものに対して、そんなにムキになれるだろうか。なれるだろう。幻想であり、ほんとうであるからだ。それは、ひとり、掛け替えのない自己にしかないものであるからだ。
だが、その自己をひとりひとりが持っている、このことも絶対として否めない、うなずくしかない、厳然たる事実である。だが、それこそ当たり前のことなのだ。空気の中にさえ、一つとして同じものはない、砂塵でさえ、一つとして同じものはない。何も協調などせずとも、それを自己に強いなくとも、まして他者に強いなくとも、そんなことはしなくていいのだ。
それでもするというのなら、自分で選んでそうするのだという自覚をもってそうするのであれば、その自己は、まわり一つ一つの、ひとりひとりの自己もその自覚をもって生きるのだとすれば、その自己はけっして一つ、ひとりでありながら一つでない、ひとりなのだがひとりひとりのなかのひとりである、という世界であることを自覚する、その自覚を強く、確かに(としか持ちようがないのだが)持つ── まわりがそうでないなら全く仕方がない、しかし自己は自己の自覚において、自己を自己とする責任において、自己の一生における仕事として、関わり合う終生の、自分のできること、最大限にして最小限の仕事を為すことを完徹、完遂すべく生きるのだ。
いや実際、そうとしか生きれないのだ、人一人一人、その自己からは、死ぬ以外に脱することができない、その自己が死ぬまで生きることしかできないのだ。
《精神が死に、次に肉体が死ぬ》
その死ぬものは、だれでもない、自己自身である。その自覚をする者も、自己以外の誰もいない。肉体の死は瞬間だろうが、精神の死はそれまでの自己の生きる瞬間瞬間のうちにあるだろう。それは自覚可能な、自覚しかできないものだろう。それを、他に預けるようにして、その時間を生きることは── ああ、悲しいなどと自己憐憫するのも嘆かわしい、生きたか生きていないか判別すらつかぬ、哀れむべくもない、愚か、と言って差し支えないものではないか? それさえ、「そういうものだ」と、れいの「皆」をおのが固定観念の支えにして、きみはそうして行くのか。
自分で、選んでそうして行くのだ、と? これは自分の生です、自分で、この自己が選んで、そうして行くんです、と? ああ、嬉しい! そう言ってくれるなら! きみがそうして死ぬまできみがきみである、まったく仕方なく、しかしきみがそうきみである、きみの自己をきみとして最後まで行く、きみを連れて行く、歓喜、喜び… なんという、なんという喜び!