独占欲に駆られ、その対象である相手が自分の全て、自己存在理由の全てとするように生ける人は、「わたしの全て」である相手にたかってくる蠅から守ろうとする。自分の要求を叶え、彼を誰にも渡さず、彼を守った。
この時、彼女は「わたしの全てを守った」。わたしの全てを奪おうとした悪魔を撃退した。わたしの勝ち!
彼女を動かしたのは嫉妬である。蠅に対する、またその蠅と一緒に飛び立ちかねない彼への不安… わたしの全てが失われる、「奪われる」ことへの…
彼女は彼を守った。自分の存在理由、意義、意味、自己を立たせる立地条件… 領土を守った! そこに建つ彼という建造物への侵入を許さなかった、彼女の夢と現の塔は守られた、愛の勝利!
それを見ていたもう一つの建造物、人造人間の一種、天にまします我らが神の目からは── というのも、それなくして、天からの目なくして地上を映せなかったので── しかしこれは大切な創造だった、何より大切な見地だ、いやほんとうに── 彼女の心動、こころのうごきを見つめるその目には── どう映ったか? 天網恢恢疎にして漏らさぬ、その目には?
むろん、そんなものは愛ではない。自己愛も愛の名こそ借りはすれ、彼女のは見紛うことなき自己愛そのもの!
ところが、その創造された神は(この神こそ愛そのものであるとキルケゴールは云う(ニーチェも云ってた、神は愛そのものである!(「創造された」と彼らはいわない… 思うに、それは完全であるからだ、想像するということそのものが。(そしてこれは素晴らしい、と言っていい人間の能力なんだ)完璧であるからだ、理想、想像というものが! 自己の内、一人一人の自己の想像、理想内は、常に完全、完璧であるからだ。たとえそれが絶望、自分にとって不本意な、不都合な想像であっても、想像の中では完全完璧であるからだ…)、もっと大きなもの… すなわち、
「愛はなにものも奪わない、したがって愛は『何も持たない』」。
なのに、彼女は「持った」──
今自分の書いた稚拙な例、彼女の場合、もちろん全く、愛ではない。単なる自己愛、それこそ忌むべき自己愛だ。嫉妬は奪う、得る、ものにする。でも愛は、何も奪わず、得ず、ものにしない。