事実は小説より奇なり。実際そうだろうなぁと思ってきた。だがその事実を事実と感観する、またその事実を、一つの事実を、二、三人の人間が軽くも重くも、またどうでもいいとも受けるという、この二、三者二、三様の受け止め方、見方、要するに感じ観ずる仕方が、この違いこそ恐るべき事実なのであろう。
 一人の人間が一つの事実を受け止める。それだけなら、全くそれだけの話だ。ところが、百人がそれを受け止めた場合、百通りの、いわば野球でいえば「ミット」がそこにある。

 こちらがいかに渾身の力を込めて球を投げようが、また逆もしかり、相手がどんな軽い球を投げようが、こちらはそれを重く受け取め、またあちらは意にも介さない。そんなことは日常茶飯事で、こんなスレ違い、肩すかしから、人との関係、できあがっていると思えることはしょっちゅうだ。いやそれしかないのかもしれない。この世の関係するところの関係というのは。
 誤解も理解もない、そもそも解することのできないもの。だから解そう、とすることができることはむろんだ。

「人間は精神である。しかし精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己とは何であるか。自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである」
 キルケゴールの「死に至る病」のこの冒頭を、椎名麟三は覚えているという。

 覚えるということは、しかし理解する、この場合、こうがこうでこうであるからこうなのだ、ということを椎名さんは「理解して」覚えたのだろう。1192つくろう鎌倉幕府、2×2=4 のようなものではない。もちろんキルケゴールの多くの著作を読んだはずの椎名さんは、その多くの著作にふれることによって、理解したのだろう。
「ぼくは『死に至る病』の、あの長い見出しを暗記しているのです。あれにキルケゴールの言わんとすることが集約されていますね」
 そう言わせたのは、理解であったはずだ。

 もう一度考えてみよう。「関係とは、」ああ違った、その前に精神だ、人間とは何であるか、精神である。精神とは何であるか、精神とは自己である。自己とは何であるか、自己とは… ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。

 ── ここまでは、何とか解る。ここから先は? 「あるいは、」がある! 「あるいは、その関係において、その関係が、それ自身に関係するということ、そのことである」。

 …、自己とは、一つの関係である。これはわかる。「その関係それ自身に関係する関係である」。自己とは一つの関係である。その関係とは? それ自身、とは、「その関係」を指すのだと思う。その関係、とは、一つの関係であり、自己である。それ自身に関係する関係である。
 … わかったような、わからぬような… でも最初のはわかる、人間とは精神であり、精神とは自己であり、自己とは関係であり、その関係それ自身に関係する関係である。

「それ自身」とは、「その関係」だろう。

 関係を持つ、といえば、自己が持つ、かのようであるが、そのようにキルケゴールは云っていない。関係とは、関係するところの関係であり、人間、精神、自己なるものは、関係が関係するところの関係、と解釈していいのか。
 まだまだ、というか、それどころか、自分はほんとうにわかっているのか。

(いや、キルケゴールを曲りなりにも何冊か読み続け、わかっている、と言えると思うことがある。それは、何も難しく考えることはない、と言える、言っていいものと思う。こんな読み方が正しいのかどうかが分からないが、あまり難しく考えなくていい、というより、テーマにしていること、かれが書きたい、書くテーマ、目的、目指してるものそのものが難しいと言っていいものなら、言っていいのだと思う。それについて、かれは書いているのだ、考えることが必然であること、考えなければ書けないことを書いているのだ。体感する、触れる。生身の彼がいる、じっさい「入って来る」、「野の百合・空の鳥」を読みながら、もうすぐ読み終える、つよく実感する。どうしてか、涙ぐましさも伴うのだが)