あの世での憧れの問い

 さて、考えるということはこういうことをいうのだ、と、書いている本人はそんな意識がなく、だから他者に読まれてどう思われるかという意識もなく、ただの当人の秘密の部分(外に顕われないもの、内面にのみ留まり外に顕われないもの、知られることを拒むものは秘密にさえならない秘密のかたちをとる)。
 この秘密に惹かれる者は、この秘密を有している本人以外に特に誰もいない。秘密は、ほのめかされなければ、まわりはそれがあることすら知ることがない。
 個人的な体験は、それを書くことで秘密の自分からの暴露となる。

 キルケゴールの「あれか、これか」第二部の上、結婚、婚約について、これでもかこれでもかと彼は書いている。結婚。結婚というもの。さして興味のないテーマであるせいか、あまり響いてくるものがない。いや、それも言葉の話。これほど彼をこだわらせる結婚、そして考え続ける熱意、意欲! これが至上というほどに響いてくる。むろん言葉・文章を介して。自分は何を読んでいるんだろう、何を見ているんだろうと思う。言語を介して。
 セリーヌとキルケゴールを読んでいて、ただただ感じる、こちらに入ってくるのは「勇気」だ。勇気をもらう──

 どうしてか勇気をもらう。読むと元気になる、と言える。この二人の作家(「反復」「瞬間」「おそれとおののき」などは殆どエッセイの感がある、哲学というよりも) 、かなり特異である。前者の過剰な「・・・」、点々の使用、あの口語文、文とも思えないような文(「ノルマンス」のとんでもなさよ)、後者の常軌を逸する執筆意欲。
 考えること、正しいこと、執着、訴え。なんと強靭な支柱! 精神。涙ぐましさも伴うが、これが書くってことだ、イコール考えることだ。と、まさに勇気をもらえる。肉体が滅びても、消滅しないものがあることを痛感する。この痛みはありがたい!

 さらさらと読んでいるが、時によくわからず何度か同じセンテンスを読み返し、こちらも一緒に考える… ひとりでなく。まこと、考えることには無限の泉がある、確かに何回も読みたくなる。
 できればヘーゲル、カント、キケロも読みたかったが、この二人の著述家で自分の読書人生、終えそうな予感。紙をめくらぬネットの作品は読ませて頂くけれど。いずれにしても時間が掛かる。「作品」と「記事」… 興味関心のある記事は熱心に読む。作品は、文体と内容と書いてる作者、その匂いに惹かれ。
 話は変わるが、やはり呼吸を意識すること、だいじなことのようだ。コーヒーも要らず、白湯だけで。タバコも要らず、呼吸だけで。じゅうぶんになる──のだろう、さいごには。いつその時が来るか、神サンのみぞ知り。
 しかしもしあの世があって創造主がいたら、そのときに訊いてみたいものだ、「わたしは何のために生きていたのでしょう?」