ある世界

 自分を大切にできない人間は、人も大切にできない── 自分の、何を大切にするか。

 衣服、居住、立場、すなわち見た目を大切にすることは、自分を大切にすることにならない── 大切にするのは、それらによって悲喜を感じる心情であって、これが自分の本体である。

 暴力を人に振るえる人間のニュースを見るたびに、そう思う。
 ああ、この人は自分を大切にできなかったんだ、と…。

また、自分を大切にできない情況を想う。
 学校の先生はシステムにがんじらめにされているだろうし、会社にしても、そして子どもにしても大人にしても、自分を大切にできないシステムに身を置いているように見える。

 今までが、こうだったから。
 この流れで行きましょう、となっていて、何も変わらない。

 そうですね、変えるのは大変なことですから、と、何も変わらない。

 何か、大きそうに見えるものに、どうしたわけか流されてしまう。
 大局は、局地局地の地点があって、成り立っているのだが。

 正体不明のものに動かされる── これは人間に限らず、生きとし生けるものの共通項だとは思う。

しかし、自らに内在するいのちの自然な動きを、他によって削られ、また自らによって削り、相互に削り合って、あたかもそれが「生きること」としてきた生き物は、おそらく人間に限られるだろうと思われる。

「これが世界だ」とばかりに、「世界」が立ちはだかっている。
 人間が生きるためにある世界でなく、世界が生きるためにある。

 その世界にそぐわぬ人間は、淘汰される。
 自然にではなく、人為によって。

 人間がつくった人間社会によって、人間自身が淘汰される。

「世界における多くのものが悪臭を放っている。
 この事実のうちに、知恵がひそんでいる。
 嘔気はきけが、翼をつくり出し、泉を求める力を生み出すのだ」(ツァラトゥストラ「新旧の表」)としても。

「かれらが最も憎むのは創造する者である。
 既成の表と古い価値を破る破壊者である。
 それをかれらは犯罪者と呼ぶ。── 善い者たち、それはつねに終末の発端であったのだ」(同)としても。

「いつの日か、未来の光を点火すべき者は、重い雲として長いあいだ山に垂れこめていなければならぬ」(同、「七つの封印」)としても。