時間の中で

 合理とは、理屈に合ったことを指すものさしである。そして世界は、「合理的に生きなさい」と言っているように見える。
「こう生きたらいい」と、口走る者に、その根拠を問えば、実にたいしたことはない。
 せいぜい、それが常識だとか、世間はこういうものだ、まわりが皆そうしているからだ、とか言うだけだ。

 そもそも合理とは、その対象を必要とする。
 仕事に対する合理、生活に対する合理、考え方に対する合理。
 対するものなくして、自らが自立して歩くことができない。

 私はずっと「自分に正直に生きる」のがいいと思っていた。
 その正直さとは、自分の心に対しての「内」だとして、しかし、この身体が対しているのは「外」なのだ。

 この内と外が離れているところに、生きにくさが生じる。
 そもそも、不合理にできている心を、合理を求める社会と一致させることに、無理があるように思う。
 ならば、どうしたらいいのか?

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 ミヒャエル・エンデは、「時間泥棒」を創造した。それは、仕事に関する「時給」「月給」に思える。
 時間が、金銭に取って代わったのだ。
「働かずして、生きて行けまい」これが、完全無欠な鉄壁の社会ルールのようである。

 私の本能は、それに対して反発する。もうひとつ、その反発に反発する「そうだよな」もある。
 この「私」を統治するのが、誰に求められてするわけでもない、自分の本当のしごとであるようだ。