まじめについて

 まじめな人間はソンをするという。
 戦争で、兵隊を経験した父は、「まじめなヤツほど前へ出て行って、バーンって(鉄砲で)やられちゃうんだ」と言っていた。
 それは現代にでも重なる部分だろう。バカ正直な、まじめなヤツは…。
 ところで、その「まじめ」とは何か?
 孤島で、ひとりで生きている人は、そんな観念をもたないだろう。
 まわりの人が決めることなのだ。
 そして大抵が、あるルール、決められたことを守る、守ろうと努力する人を、まわりは「まじめ」と評価する。殊にその規則をつくった人間、職場でいえば上司の命令、「こうしましょう」ということを従順に守り、遵守する以上に「がんばる」人が評価される。まじめ・がんばる、この二言が悪く使われることはない。
 まじめというのは、重宝な言葉だ。
 が、それはあくまでもまわりの人間が「私」に対して抱いた印象であり、その印象が言葉になったまでのことだ。印象が心から生じる以上、それは一定するものでなく、変わり続ける。相手の、「私」への印象を「私」の心が喜んで受け入れたとしても、その心も一定しない。たえず変化をし続ける。

 守るべきルール、それを命じる上司、その中にいる私、この三者に通ずるのは、変わるということだ。それが、ある、存在する、ということだ。
 そして「私」が死ぬまでつきあい続けるのは私自身だ。職場がどうあれ、住む町がどうあれ、こいつとだけは変わらない。
 あの上司も、この近所の人も、そうなのだ。「私」への印象、その他諸々の印象をもった自分の心と、終生つきあっていくのだ。「私」は私としてあり続けながら、その他諸々はその他諸々としてあり続けながら。
 そいつは実に軽い。
 前へ進め、突っ込め!と言われ、まじめにがんばった兵士は誰より先に殺される。そしてそう命じた隊長は、責任のとりようもないのだ、その死に対して。
 そんなふうに、世の中、社会がずっと来ているのなら、こんな世とかかずらいたくないものだ。
 ところが、かかずらわないではいられない。そのために、もっと軽くなろうとする。諸々のことに捉われた心をみつめずに、この心を捉えたものにばかり拘泥していく。軽い心が、いっそう軽くなり── 跡形もなくなる。
 言葉は形骸化する、心の入る余地もない。その言葉にまた、心がぴょんぴょん跳ね回る。
 踊らされ、心は疲れ切る。踊りたがった心を制せなかった、自分自身のせいなのに。このことに気づく人は少ない。自分以外のせいにする。
 心を置き去りにした代償を、その身が、また後世の人が払っていくことにさえ無自覚になれる。

 まじめな人はソンをするという。まずそんな損得勘定、打算、はからいをするちっぽけな頭を、どうにかしたいものだ。でもそれは本人が気づくしかない、まわりはただそのきっかけを与える、それだけの存在にすぎない。
 こんなことを書いている自分も、気づかぬことだらけだ…