この眼を意識する。これは、眼を見る、もう一つの眼だ。
この体内にある眼。己の中心に、巣食う眼。
この眼は、もう一つの眼に、見やれる前から、すでにある眼だ。あった眼だ。
それが、もう一つの眼に見やれることで、より研ぎ澄まされる。それ自体の輪郭、それ自体がどっしりと、ここに在ることが実感せられる。
この体内、ここにある肉体とともに、確かに在ることが実感せられる。
ここに在るということが確実に知れる。
この知ったものと、知らせたものとの関係は、同じ一体、同一のなかにある関係である。
だが、知らせたものは、もともとそこにあったものであり、知らされたものは、それを見ることによって知らされたものだ。
この二つのものを、さらに見るものがある。
すると、そのさらに見る眼を、さらにさらに見る眼が生じる。
さらに、さらに、さらにと、それを見る眼を見る眼が、それを見る眼を見る眼を見る眼が生じていく。
眼は、外へ外へと生じ、だから内を、その眼の中にある眼を、眼を、眼を見れる。
だから広がっているはずだ。
まるで無限のように、その眼を見る眼、その眼を見る眼、その眼を見る眼が、たまねぎの皮のように蔽い被さり、そしてその球体は、大きくなっていくはずだ。
すると、きみはめまいがする。
不安になる。
せっかく大きくなったようだのに、それがきみの世界であったはずだのに、せせこましく、最初の一体── 一つの眼と一つの眼の状態だった頃に、戻りたがる。
あれは、きみにとって確かに、新鮮で、ぴちぴちして、「自己がここに在る」この上ない実感を、きみにもたらしたものだろう。
大きくなったら、不安なのだ。きみは、大きくなったら不安なのだ。
だが、もう鮮度は落ちている。時間が経過したからだ。
きみはどこにも戻れない。迷える子羊、迷える子羊。
きみはこれを繰り返す、大きくなって、小さくなって、大きくなって、小さくなる。
きみはたまねぎをむく。むいて、むいて、むきまくる。
そのうち、きみ自身がたまねぎであることを発見する。
そして元に戻る。
このたまねぎをむいていたのは、だれだったろう、と。