まことの敵は自己の内にあるのであって、外の他者にあるのではない。
それを全く顧みず、他へ攻撃を加える人間をぼくは軽蔑する。嘲笑なのだが、親しみを込めて、微笑んでやる。
すると相手はカン違いして、より一層の親しみを込めて、ぼくへ笑いかけてくる。
そして親しい友達のようになる。
この場合、誰が誰をだましているのだろうか。
彼は、彼自身をだましていない。それどころか、攻撃を加える自己の心を見ようともしなかった。
ぼくは、軽蔑しながら微笑んだ。相手がカン違いすることも、想像のうちに入っていた。
彼をだましたのは僕になろう。
だが、彼はだまされていると思っていない。
ぼくはまず自分をだました、とも言えるだろう。彼との関係は、そこから始まった、と言っていいだろう。
もし彼が、ぼくの微笑を嘲笑と受け取ったなら、ぼくはぼく一人をだましただけで済んだ。
だが、彼は好意的にぼくの微笑を見たために、ぼくは彼とぼくの二人をだますことになった。
ここに、ねじれが生じた。それから僕は、自分自身のみならず、彼もこの自分の中に入れて、さらに僕自身と彼、二人の人間と対さなければならなくなった。
一人なら、とぐろを巻くだけで済む。それはそれで窒息しそうになるが、二人になると、絡み合い、もつれ、空気の重さも加味されて、二重苦の様相を呈してくる。
正直に、軽蔑の目線を投げてやればよかったか、と後悔する。過去と現在という紡ぎの時間、彼と僕という二つの存在、四重苦の舞台が整えば、未来への想像、元来の自分と僕の関係を思い、六重苦へ発展する。
さらに些細なことが気になり始め、八、十、十二、果ては無限が登場し、ぼくは疲れ果てるのだ。
ここでやっと、基礎へ立ち返る。こうなったのも、自分と自分との関係に端を発しているのだ、と。
ぼくは彼をだましたかもしれないが、彼はだまされていないのだ。ぼくは、ぼくとの関係からぼくをだましたのであって、特に彼へ被害を及ぼしてはいない。むしろ、彼は喜んでいたではないか!
自己欺瞞から始まった懊悩の時間が、こうして解決を見る。こうなるまで、58日、1392時間の時間が必要だった、1392時間がなければ、ぼくはここにたどり着けなかった。
そして新たに疑念も浮上する。この解決とも呼べない解決は、… それこそ自己欺瞞ではないか?