生きている甲斐がある。そんな感じに打たれる時。
「生きててよかったと思える時」とでも換言できそうだが、生き甲斐とはそんな瞬間的な喜び、刹那的な、一時的な感慨ではないだろう。
植物を鉢に植え、やがて大輪が咲くように育てる。みごとに咲いたら、嬉しい。
だがその人は、もし花が咲かなくても、その鉢に植えた植物を愛で続けるだろう。
何の肥料が足りなかったのか、水やりの仕方を間違えたのか、置き場所が悪かった等々を考え、工夫をし、けっしてその鉢を捨てないだろう。
生き甲斐とは、そんな庭仕事を好きでやり続ける、穏やかな老人の姿のイメージと重なる。
彼は、これが自分の生き甲斐だ、などと露ほども思っていない。訊かれれば、「まぁ、そうかもしれません」と気恥ずかしそうに答えるだろう。
だが、植物を育てること── それは気の長い話だ── これが彼の日常に愉しみを、潤いをもたらしているに違いない。
生き甲斐とはそのようなもので、「こちら」ばかりが主ではない。「あちら」、この場合は植物だが、その対象、自分が関心をもち、好きで接せられる対象がある。その対象と自分との関係、その関係が、知らず知らずのうちに自分の生き甲斐のようになっている状態。
生き甲斐とは、自分が愉しめること、自分が愉しむこと。ささやかな、誰に見せるためにやっているわけでない、裏庭の一つの鉢植えを、愛でること。
前話、先述した、「関係」。今一緒に暮らしている人、友達、その姿が「生き甲斐」を考えた時に浮かんだのも、こう考えてみると自然のように思える。昨日は、なぜそんなイメージが浮かんだのか分からなかったけれども。
ところで、植物は何も言わない。こちらが、その状態を想像するだけである。鉢の中の環境、根っ子の伸び方などを。
そうして接していることは、人との関係も同じことだ。この人は今何を考えているのか、何を感じているのか、想像するしかない。
だが、人は物を言う。自分と違う者を否定し、否定されれば憤り、相手を排除しようとしたりする。
鉢の中の植物のように、愛でない。
自分は正義だ、自分は正しいと思っているから、それぞれに思っているから、争いや諍いが絶えない。
その関係をきっかけに、自殺したり、他人を殺傷したりする。自分を傷つけ、他人を傷つける。そんなことをするために、関係があるはずではないのに。
それを愚かなこと、と思うのも勝手だ。
だが、それを愚かと思おうが何と思おうが── 小さな一時にすぎない。
人間が戦争を繰り返し、暴力を繰り返す。それを愚劣だ醜悪だと、どんなに思おうが── モーツァルトのレクイエムが奏でる音楽のように、この世のものを包み込む、圧倒的な、誰も、何ものも抗えぬ、大きなもの、生命の流れ、生命の息吹とでもいうようなもの、それが確かにある、ということが僕には感じられる。
それは全く、筆舌に尽くし難い、大きな大きなものだ。
それは、けっして醜い、忌むべき醜怪なものではない。
その正体など、人智の及ぶものではない。
それに包み込まれて── 包み込むそのものは、何の意識もなく── あたかも永劫の中、永遠の如きもののように流れ、流れている。
それを感じることが、感じられることが… 僕のささやかな、しかし掛け替えのない、「生き甲斐」であるのかもしれない。