気と石と

 生きているのがイヤになって、死にたいなあと思う時、まわりにいる人が疫病に罹り、ばたばた死んで行く情況のなかで、「死にたい」を貫徹して死ねる人は、そうそういないだろう。
 ── そんな想像をしてみる。

 そのなかでは、死が、身近に感じられ、まるで生きているのが当然であったそれまでの情況と180℃変わってしまう。
 死にたかった本人、まざまざと生死の境を現実に目の当たりにして、生きたい、生きたいと願うようになるかもしれない。

 とするならば、死は、そのような情況にならない限り、ほとんど身近に感じられないものだろう。
 まるで、生きているのが当然至極であるかのような幻想のなかに生きていることになる。

 どうして死ばかりが、災厄のように疎んじられてしまうのだろう。
 死ぬのは苦しいかもしれないが、生きていることだって立派に苦しいではないか。

 そもそも、誰にとっての苦しさなのか。死した本人ではなく、まわりの人間の労苦のように思える。
 死を厭うのは、本人よりもまわりなのではないか。自分が、悲しみたくないという恣意ではないか。

「荘子」に、長年連れ添った妻をなくし、お盆をたたいて歌い、まるで楽しそうな荘子のことが描かれている。
「プラトン」のソクラテスは毒杯を仰ぐ際、死後の世界は素晴らしいかもしれないのに、なぜ悲しむのだ? と、むせび泣くクリトンたちを励ましている。

 私が書物に知る賢人たちは、死を恐れていない。
 死ははじまりであり、鞘に納まった刀のようなもので、死して初めて刀がその身をあらわす。仮の宿であった肉体からやっと抜け出すのだ、という。

 といって彼らは、妙な新興宗教のように死をけっして美化しない。
 死ななければ、生もない。実に恬淡としている。その永遠の繰り返しを、われわれは繰り返すだけである、とでも言いたげに。

「生ばかりをあたかもヨシとし、死が同様の扱いをされぬが如くみられるのは、いかにも身勝手な見地ではないか。
 そんなことだから、くだらぬ地位や名声、金銭や富、勝ちだの負けだのに拘泥するのだ。

 考えてもみ給えよ、われわれが生きている今の、どれだけ小さな、矮小であることか、それまでわれわれの存在しなかった時間の、いかに悠久であったことかを。
 それだのに、たったの今のこんな一瞬に、何を強欲になっているのか」

 賢者の石は、ほとんど誰に破壊されることもなく、自然に在り続けるものだ。
 歴史は紙に記され、しかし石の意見はかたくなに口承される。
 人間のあいだに、息のように生き続けるもの。

 もしこの世に価値あるものがあるとしたら、紙の上よりも石の中にそれがある。
 ブッダ、老子荘子、ソクラテス、彼らはそれを見る人たちだった。
 これはもう、運命というほかない、そのような人としての内性を生きざるを得ない人たちだった。

 誰もが同じ生命であり、木も虫も、川も瓦も、藁も砂利も、すべてが同じ生命である。
 それを観じ、よく心に留め、生きるということ。

 石は何も言わずとも、それを観じる人間に、必ず何かものを言う。
 それは耳でなく、心で聞ける。石は、雄弁に語る。

「ほんとうのことをして、生きなよ」
 さっき、石がそう言ったような、言わなかったような。