どうでもいいこと

 どうでもいいこと──というのは、もしこれを目にする方がいらっしゃったら… その読者と、これを書く自分との接点、僕がここで何を接点に、だからどこに重きをおいて、何を書きたいかという、その「何を」から外れることを、どうでもいいこととする──を書こう。

 そう、どうでもいいこと。この定義をするために、こうして書いたら、何を書こうとしていたのか忘れてしまった。ほんとにどうでもいいことだったのかもしれない。どうでもいいとは何か、で、頭がいっぱいになったようだ。

 これはもちろん、どうでもいいことで頭が一杯になったのではない。どうでもいいとは、どういうことかを考えたら、最初に言いたかったことを忘れてしまった。

 どうでもいい、どうでもよくない、その境界線は、僕の中で鮮明だから、これについては書ける。

 どうでもよくないのは自分自身に関してのことで、それ以外のことは、ぶっちゃけて言えば全てどうでもいいことだ。

 100年前に沈んだ船を見に行き、ミイラとりがミイラになったような事件が起きようが、女優の誰が不倫をしようが、どうでもいいことだ。海底は行ったことがないから興味は湧くが、なんで3500万円も払って「観光」しに行ったのか、と、事故の事実よりもその人の心に僕は興味が行く。

 もちろん、痛ましい。さぞ苦しかったろうと想像する。想像すると、こっちも苦しくなる。だが、それだけなのである。

 これが、自分の親族、近しい友があの事故に巻き込まれたとしたら、まったく違った事件になる。そわそわして、落ち着かない。心の置きどころがなくなる。だがしかし、そして何もできないのである。

 自分に関すること。関する人、自分と関する人、場所、この以外においては、「この身に起こったこと」ではなくなる。

 原発が事故を起こそうと、彗星が地球に衝突しようと、この身に関した人・場所でないかぎり、あとは想像してそれに近づくことしかできない。

 だが、こんな僕にも、あるニュースを見れば、それが「他人事」であっても他人事となり得ない、必ず身に詰まされる思いのすることがある。

 自殺のニュースである。これはほんとうにつらい。

 どうして死ななければならなかったのか。

 自分に、自殺したかった過去、よく死を想う、こういう自分がいるから、そういうニュースが痛く自分に入ってくるのだ。

 僕も、自殺については、そういう内容、なぜ人は自殺するのかという自分の考えをけっこう書いてきた。

 できれば、死にたいと考えている人が、僕のこんな文でも目にして、踏みとどまってくれれば、という思いも強かった。そこには、ほんとは死にたくないという自分自身、僕自身を励まそうという、その気持ちも大きく働いている。

 だが、自殺を考えている人が、僕のこんな文章を読まないだろうことも知っている。椎名麟三が、「人は自分の頭に飛び込んで自殺する」と言った通り、死にたいと本気で考えている人は、もう、それだけでいっぱいになる。まだ、そんな一心不乱にならず、まだ、余裕のようなもの、自分の頭の中以外へ、探しものができる人は、まだ大丈夫だと思う。

 そして生きる意味とは、とか考えて(これを考えるから死にたくなるのかもしれないが)、生きて行ってほしい、そんな媒体の一つに、僕の書いたものがなってくれたら、もうそれだけでいい。何億円もらえるよりも、そのほうがよっぽど嬉しい。

 原発についても、反対とするものだ。その害について明確な論理を僕は持たない。ただ世話になった、僕の人生に大きな影響を与えてくれた人が、そういう人であり、僕が親しくなった人に、原発推進派というような人はいなかった。

 なにより、「あれはヤバい」という感じ、直感というのか、まずこれがある。

 こう書いていると、いかに自分の世界が狭いか、というのが分かる。だってもっと大きな人間だったら、もっと大きな想像力、「他人事を他人事としない、できない」世界、想像力をもって、… そしてどうするだろう。

 大きな人間。

 大きな人間とは?