人に、良く思われたいと思うこと

 人に、良く思われたいと思うこと── たとえそれが自己満足のためであったとしても、そこには他者を思う、他者のことを考える気持ちが働く。

 だから、そんな悪い、悪しきものではない。自分のことを考えることによって、他者はその自分を映す鏡となる。この鏡は、大切な、貴重なものだ。

 ただ、この「良く思われたい」とする心が、自分を苦しめることにもなる。災厄のように思え、ましてその他者が気に入らぬ、自分の価値観にそぐわない、自分の正しさを損なう相手であったら、その相手が自分にとっての大きな障壁となる。こいつとはつきあいたくない、顔も見たくない、となる。

 自分の価値観、そこには必ず「正しさ」が孕んでいる。自分が正しい、と誰もが自分のことを思い、その価値観から人を見、物事を見、「判断」をする。

 そしてこの「価値観」を同一とする、息の吸い方まで同じような人間は、きっと皆無なのだ。

 だから人間関係が疎ましく思われる。「合った」人とだけつきあいたいし、「合わない」人は面倒臭いから避けたく思う。自然なことだ。

 でも、ほんとうに自分と同じような人間など、この世に一人としていないのだ。

「わかりあえたような時」「一緒にいて、息が吸いやすかった時」はあれど、その関係が未来永劫、永遠に続くことなどあり得ないのだ。

「その時」「そんな時」があった、それだけである。

 自分のままでいい、などと言われても、その自分は刻一刻と変化する。気分は、まったくおぼつかない。「気分屋」も疎ましがられるが、おそらく誰もが、その「気分」に左右されて生きている。今日、あいつに電話してみよう、と思って電話をかけたりする。今自分がこんなことを書いているのも、書きたいと思う── そんな「気分」で、書いているのだと思う。

 しばらく連絡をとっていないから、とか、それは頭で考える理由で、まずその気にならなければ電話をかけようと思わないし、少なくとも僕は書き「たい」という気持ち、わけのわからない「気」によって、書いている。

 それはそれとして、「生きづらい」と感じる時、生きづらさを考える時、どうしたところで「人」を意識する自分がいる。他者、一般、大多数、を意識し、その中に自分が入っていれば、その意識ができれば、何となく安心する。

 先日、ケーキ屋に行ったのだが、自転車で行ったため、マスクを忘れてしまった。飲食店内に入る時は、やはりマスクはつけたいと思う。まいったな、コンビニでマスク買うか、とも思ったが、ケーキ屋の入口には特に「マスクをつけて入店を」と書いていなかった。

 で、マスクなしで入ったのだが、けっこう客もいて、そしてマスクをつけていない婦人や子ども、老人もけっこういらっしゃった。で、僕はホッとすることができた。もしみんな、全員がマスクをつけていたら、コンビニにマスクを買いに行ったかもしれない。

 それと同じで、「みんながそうしている」中で「自分だけそうしない」のは大変勇気の要ることだ。

「自分のままで」なんて、いられない。そしてそれを自然と思う。

 こうして自分を省みれば、また、そこから「人間」を見てみれば── 軽薄なものだ。軽く、ここにいたトンボが、すぐあっちへ飛んでいくように。

 気分── うつろいやすく、一箇所にじっとしていられない「気分」のために、自分というものがまた分からなくなる。

 天気一つで、軽快になったり憂鬱になったりするのが人間らしい。それは気分の存在であり、その「気」に操られる人間は軽い、身軽なものである、が実体かもしれない。

 だが、それを引き留める── 身軽であるはずの存在に、重く、覆い被さってくる、そうさせるものがある。

 それも気分の作用でもあるだろう、でも、この場合、「思考」の方が大きな位置を占めているように思われる。

 存在、これが軽い、軽薄なものだとして、それをそのままにさせない、そのままでありたくないとさせる、何か意思のようなものが、身軽であるはずのこの身の中に働く。頭も、この身の一部として。

「このままで、いいのだろうか」と、自分を基準に「世の中」を見る。