論理的思考

 私は、論理的思考ができない。

 これはこうだからこうであり、こうなって、こうなってこうなるのだ、という考え方ができない。

 分数の計算もできない。何分の一、は分かる、だがそれを「計算する」となると、何をどうすれば「答」になるのか分からない。

 算数は、ほんとうにダメだ。足し算引き算はできる。かけ算も九九は覚えているが、計算となると危ういかもしれない。割り算の計算はできない。

 これができないことで、生活上、また今までの仕事上、困ったことはない。現実には困らなかったが、思考回路、A+B=ナントカである、という答に至るまでの「式」が分からない。

 これはどうも生まれつきのものらしく、どうしても理解できないのだ。

 でも、定時制高校で数学の時間、方程式の計算問題などはできて、90点ぐらい取った。たぶん先生の言うことをよく聞いて、テストの時も何も考えず、思考回路を式に当てはめることができたせいだと思う。

 クイズみたいで、ちょっと楽しかった気もする。だが、もうとっくに忘れてしまった。

 この計算式の思考回路はこの頭に根付かなかった。私の土壌と数学は合わず、いくらタネをまいても弾かれた。

 その時は理解できた気がしても、ほんとうには理解できなかった。

 国語も、よく分からなかった。英語は、文法、品詞分解などをして理解することができた。どんな長文であっても、それは五文型以上にならない。形容詞や副詞は、基本的に文の主脈、物語のあらすじに大きな影響を及ぼさない…

 これは、私の頭に根付いた。英文を理解するに、必要必須の道具であることが、すんなり入ってきた。面白かった。今はだいぶ忘れている。

 大学受験の時、重要な英語だった。文法なんて、初めて知った。基本をとにかく勉強すれば、あとは応用で何とかなるんだと思った。

 論理的な思考。

 こうして書いていると、あるていど論理的(?)に書いている気がする。でも、「思考」の真っ只中にいる時は、論理のロの字もない。イメージの世界、アメーバの世界、思考が思い思いに、とりとめもなく動いている。

 こうして言語化して、しようとして──書く作業と思考作業が同時進行して、やっと論理的になっている(?)ようだ。

 言葉にしなかったら、私はアメーバに頭を喰われ、浸食されてしまうだろう。

 こうして言語化することで、やっと「私」が形になり、「見える」気がする。それがとても楽しい。言動一致、という言葉があるが、言葉と自分が一致した時、もう、気持ちがいい。

 特に誰の迷惑にもならず、パソコンの電気代が掛かるが、人畜無害な一人作業。

 しかし一人では生きていけないこの世界。

 何か自分が相手に対する時、論理的思考ができたならば、楽だろうなぁと思う。

 イメージ、頭の中にいることが多いから、だれかに接すると何となくドギマギして、ひどく緊張を要する。内心で。

 相手にはそう見えていないようだけど、人と接する時、何か自分に自信のようなものが持てない。

 何も緊張することはないのに、論理的思考、論拠のようなものが無いから、漠然と緊張し、ドキドキしている時があるように思える。

 こんなふうに考えるのも、非論理的なイメージ、感覚の世界に住んでいるからのような…。