音楽、歌の歌詞などもそうだが、悲しげなものが心に残る。
映画やドラマ、小説はハッピーエンドが好まれるらしいが、幸福はこちらでつくるので、製作者はそんなウケ狙いで作品をつくらないでほしいなぁ、と思う。
というのも、結局「ウケない+収益が上がらない=大衆に合わせる」仕方で、いわゆる芸術とよばれる分野で作詞家・作曲家、監督や作家が「自己表現」するのなら(作品は各々の自己表現だろう)、そのジャンルそのものが行き詰まってしまうだろうからだ。
お金、利益至上の中で生きている。それなしで、生活はできなさそうだ。でも、「自己」まで、お金のために投げうってしまうのは、違うと思う。
「稼がないで、どうやって生きてくの?」は、一種の殺し文句だ。「イイもの食べれないよ」は、要らぬ欲望に火をつける火種だ。稼ぐために自分を殺すぐらいなら、よほど死んだ方がマシのように思うし、その時点でもう精神的に死んでいる。
「人間は二度死ぬ。精神が死に、次に肉体が死ぬ」
キルケゴールに言われるまでもなく、そうして生を終えていくものなのかもしれない。
では、自分を「生かす」には?
精神が死なないためには。
表現したい自己と、一緒に生きて行くこと…
仕事にしても日常生活にしても、結局「自分を表現」することになる。ご近所さんに会えば挨拶をするし、仕事場では労働する自分が、働く形で表現される。
一人暮らしで、たとえ引きこもっていたとしても、コンビニなりスーパーで人と接触する。宅急便が来れば、配達員と。
誰かと接して、生きないではいられない。もっと言えば、空気、水、その中に目に見えない生命も生きているわけで。
どんなにひとりで生きている気でいたって、他の生命なしじゃ、生きていられない。
人間の場合、他の生物のように、ただ生きて死ぬだけでは済まされない。生きて死ぬ、それだけで充分立派である、自然であるのに、やれ貧乏はイヤだとか隣りの芝生がとか、学歴がどうの勤め先がどうの、普通は何だ異常がどうだとか、何が何だか分からないことでいっぱいだ。
「僕ら、弱い人間どうしなんだから、言葉くらい、せめて誠実であろうよ」
太宰がいくらそう言ったところで、その言葉も信じられないことが多くなった。
「お金で幸福は買えない」そんな言葉も、「いや、お金がなけりゃ、何もできないでしょう」がまるで正論のようだ。
お金で欲しい物を買ったとして、それで幸せな気分になったわけではないのに。欲しい物を得た、欲した心が満たされた、その心が自分を幸せな気分にさせているだけなのに。
恋人と暮らすのもそうだ。お金がないからといって、暮らせないなんてことはない。一緒に暮らしたいとお互いが思い、そして一緒に暮らせたら、満たされた心が幸福な気分にさせるのだ。貧乏だって、だからそれで充分幸福を味わえる。
「お金で幸福は買えない」は真実だ。真実というより、幸福の本質を突いている言葉だと思う。
それを見ない、見ようとしない、見ようともしない人間が、もし多いのだとしたら──芸術の分野のみならず、空気が──この空気の中で生きているヒトが、何とも息苦しい、今よりもっと面白くない世界になりそうだ。
世の中、そんなもんだ。… 平気で、本気で、そう思えるようになれるものだろうか。「慣れ」てしまえば?