自分が、あ、もう死ぬな、その階段を上っているな、(下りているな)、と感じたのは、友達関係を終わらせようとしたり、それまでの関係を断とう、もう人と関わり合うのはやめよう、そんな気持ちになった時だ。
思索の旅に出るのだ。もう、新しい出会い、そこから何か始めるようなことは、しまい。もう、けっこう、いっぱい、自分なりに、出逢えた人と、出逢えたではないか。もう、いいではないか。
あとは、振り返り、吟味することだ。この人生(!)、私と呼ばれる、こいつは一体何だったのか。
なぜあの時、ああだったのか。なぜこの時、こうだったのか。
なぜそうなったのか。何がそうさせたのか。
どうしてこうなったのか。
もし本質、この目に見えるものをつくるものに、その真相、ほんとうのもの、があるとしたら、そう信じているのだが、それをとにかく、追う。
それを、追う。考える、見ようとする… あばこうとする?
知りたい、だろうか。納得したい、だろうか。
いや、結局のところ、どうでもいいのだ。
気になったもの、事柄、事象、を、確認したい、そんな気持ちか?
確認はできない。そいつは、不可視なものだからだ。
が、手ごたえ… 手ごたえは、確かなものだ。
この手…この手も、実は見えないものだが、確かな手ごたえ、それを「私」が感じることができる。
この手ごたえ、その手ごたえが欲しいのだ、と言ってしまっていいだろう。
それは、ここにあるものだ…「そこ」ではない、「ここ」に。
そこは、それが、ここにあるという、ここ、を気づかせてくれた。
だが、気づくだけでは… ただ気づいた、だけに過ぎなくなる。
気づいたならば、…放っておけないだろう?
ましてや、ここにあるのだ、それは。他の、どこでもない、ここに。